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【安土に集結した力士1,500人】
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14人はその場で信長に召し抱えられ
【永田正貞vs阿閉貞大】は……正貞の勝ち!
貞大のほうが技量や体格・力に恵まれていたため、当然、勝つと思われていたそうですが、正貞が勝ちました。
著者である太田牛一は「正貞の運が良かったのか、それとも本当に強かったのかわからない」というような書き方をしています。
この日は多くの景品が用意されており、力士たちは代わる代わる頂戴していったそうです。
また、特に良い相撲をとった14人はその場で信長に召し抱えられ、刀や衣服・領地百石・邸などが与えられました。
特に著名な人物はおりませんが、折角の機会ですから名前だけでも記しておきましょう。
【相撲大会で雇われた14人】
・東馬二郎
・たいとう
・づこう
・妙仁
・ひしや
・助五郎
・水原孫太郎
・大塚新八
・あら鹿
・山田与兵衛
・円浄寺源七
・村田吉五
・麻生三五
・青地孫二郎
織田軍に限らず、戦場は土木工事も多いので、力自慢の彼らはそういった面でも役に立ったことでしょう。
本願寺を囲む砦に監査役を派遣
相撲大会の二日後、播磨へ出陣していた織田信忠が帰還しました。
それからおよそ半月ほどした9月9日に、再び相撲大会が行われています。
こちらの会については詳細が書かれていませんが、織田信忠と織田信雄に見物させたそうですので、息子二人にも剛の者を召し抱えさせよう……と考えたのかもしれません。
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9月15日、今度は大坂の各砦で対陣している織田軍の監察役として、お小姓衆・お弓衆・お馬廻り衆を20日交代で派遣することにした、とあります。
石山本願寺との睨み合いが長期化していたため、急かす意味もあったのでしょう。
本願寺攻めの総責任者は、織田家の筆頭家老・佐久間信盛です。
後々彼に突きつけられた折檻状の内容からすると、おそらくこの時点で、信長は信盛のやり方に不満を持っていたのでしょうね。
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9月23日に信長は京都へ向かい、途中で瀬田の山岡景隆の城へ宿泊。
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翌日入京し、二条御新造へ入りました。
しばらくは京都・大坂での活動が続きます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)