蒲生氏郷/wikipediaより引用

織田家 信長公記

堀秀政や蒲生氏郷も信長の前で相撲!1,500人の力士集結|信長公記第169話

2020/07/28

東海畿内を制覇し、北陸や中国エリアへと勢力を広げる織田家。

順調に領土を拡大していくその先には、毛利や上杉、武田など強敵との争いがあり、戦を有利に展開するには一人でも多くの強者(つわもの)が必要となります。

そこで天正六年(1578年)8月15日、織田信長は安土で相撲大会を開きました。

『信長公記』に何度も出てくるほど信長は相撲が好きですが、

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今回は規模が違います。

参加力士の人数、なんと1,500人!

近江や京都などから腕っぷしの強い連中を集め、朝の8時頃から夕方6時ごろまで取組(とりくみ・相撲の試合のこと)が行われたというのです。

時間割としては現代の相撲とさほど変わりませんが、参加人数と試合数の多さを考えると驚異的なスピードですよね。

行司は162話のときと同様、木瀬蔵春庵と木瀬太郎太夫が務めました。

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各武将のお抱え力士たちも活躍

力士の多くは、津田信澄や堀秀政などの重臣たちが集めてきました。

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その他に、各武将のお抱え力士たちも活躍。

せっかくですので確認しておきましょう。

活躍が目立った
各武将のお抱え力士

・京極高次
→江南源五

・木村重章
→深尾久兵衛
→木村伊小介

・布施公保
→小者勘八
→山田与兵衛

・堀秀政
→地蔵坊

・後藤高治
→麻生三五

・蒲生氏郷
→中間藪下

・瓦園
→綾井二兵衛尉

※その他は割愛

蛍大名と呼ばれた京極高次。

名人久太郎こと堀秀政。

信長の娘を妻にした織田家の若手エリート・蒲生氏郷。

などなどスター武将が並んでワクワクしますね!

しかし、今回の相撲大会は、さらにドキドキする展開となりました。

 


武将たちにも相撲を取らせた

力士たちの取り組みが終わった後、信長はかねてから剛力と聞いていた永田正貞と阿閉貞大の相撲を見たいと所望したばかりか、

・堀秀政
・蒲生氏郷
・万見重元
・布施公保
・後藤高治

この五人の武将たちに相撲をらせたのです。

布施公保は蒲生賢秀の家臣だった人で、この相撲大会から二年ほど後に信長の直臣に取り立てられています。

後藤高治は元・六角家臣でした。信長がかつて足利義昭を奉じて上洛した頃から、織田家に使えたと考えられています。

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この二人と重元・正貞・貞大の生年はわかっていませんが、氏郷が弘治二年(1556年)生まれ、秀政が天文二十二年(1553年)生まれですので、離れていたとしても10歳前後かと思われます。

残念ながら五人の勝敗結果は記されておりません。

そして、信長が所望していた頂上対決【永田正貞vs阿閉貞大】は……。

 

14人はその場で信長に召し抱えられ

正貞の勝ち!

貞大のほうが技量や体格・力に恵まれていたため、当然、勝つと思われていたそうですが、正貞が勝ちました。

著者である太田牛一は「正貞の運が良かったのか、それとも本当に強かったのかわからない」というような書き方をしています。

この日は多くの景品が用意されており、力士たちは代わる代わる頂戴していったそうです。

また、特に良い相撲をとった14人はその場で信長に召し抱えられ、刀や衣服・領地百石・邸などが与えられました。

特に著名な人物はおりませんが、折角の機会ですから名前だけでも記しておきましょう。

【相撲大会で雇われた14人】

・東馬二郎
・たいとう
・づこう
・妙仁
・ひしや
・助五郎
・水原孫太郎
・大塚新八
・あら鹿
・山田与兵衛
・円浄寺源七
・村田吉五
・麻生三五
・青地孫二郎

織田軍に限らず、戦場は土木工事も多いので、力自慢の彼らはそういった面でも役に立ったことでしょう。

 

本願寺を囲む砦に監査役を派遣

相撲大会の二日後、播磨へ出陣していた織田信忠が帰還しました。

それからおよそ半月ほどした9月9日に、再び相撲大会が行われています。

こちらの会については詳細が書かれていませんが、織田信忠と織田信雄に見物させたそうですので、息子二人にも剛の者を召し抱えさせよう……と考えたのかもしれません。

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9月15日、今度は大坂の各砦で対陣している織田軍の監察役として、お小姓衆・お弓衆・お馬廻り衆を20日交代で派遣することにした、とあります。

石山本願寺との睨み合いが長期化していたため、急かす意味もあったのでしょう。

本願寺攻めの総責任者は、織田家の筆頭家老・佐久間信盛です。

後々彼に突きつけられた折檻状の内容からすると、おそらくこの時点で、信長は信盛のやり方に不満を持っていたのでしょうね。

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9月23日に信長は京都へ向かい、途中で瀬田の山岡景隆の城へ宿泊。

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翌日入京し、二条御新造へ入りました。

しばらくは京都・大坂での活動が続きます。

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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