絵・小久ヒロ

斎藤家 織田家

氏家卜全(美濃三人衆)が信長に従い斎藤家から織田家へ その後どんな活躍を?

尾張から始まった織田信長の覇道――。

彼が一代のうちに大きく勢力を広げることができた理由の一つとして、

「優秀な人物は、敵方出身でも積極的に引き入れる!」

という点がありました。

その代表例が旧斎藤家の家臣・美濃三人衆(西美濃三人衆)でしょう。

【美濃三人衆】
稲葉一鉄(良通)
安藤守就
・氏家卜全(直元)

三人衆とは文字通り3名の戦国武将であり、このうち稲葉一鉄(稲葉良通)については、大河ドラマ『麒麟がくる』で村田雄浩さんが演じられ、

斎藤道三

斎藤義龍

織田信長

と次々に主君を乗り換える姿が話題にもなっていましたね。

史実の稲葉一鉄、安藤守就については以下に記事がありますので、今回、注目したいのはもう一人!

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氏家卜全(氏家直元)についてスポットライトを当ててみましょう。

なお、出家前の名前は”直元”ですが、本記事では“卜全”で統一します。

 

御家騒動に揺れる美濃土岐氏

氏家卜全の生涯は大きく【前半・後半】に分けられます。

前半は、美濃の国主に仕えていた時代。

後半は織田家に仕えてから亡くなるまでの期間です。

この時代の人によくあることで、卜全の生年はわかっていません。

始めは土岐頼芸、続いて斎藤道三に仕えているので、この点から推測を広げていくことはできそうです。

卜全本人の話題とは少々離れますが、簡単に確認しておきましょう。

土岐家の当主(美濃守護)が頼芸の父・土岐政房だった頃、同家ではお家騒動がありました。

政房が次男・土岐頼芸を偏愛し、長男の土岐頼武を廃嫡しようとしたのです。

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頼武に健康や行状の問題があるならともかく、この場合はそうではありませんでした。

当然、家臣たちも頼武派・頼芸派に分かれて対立。永正十四年(1517年)にはついに戦へ発展してしまいます。

このとき道三の父・松波庄五郎(新左衛門尉)が頼芸派につき、紆余曲折の末、享禄三年(1530年)に頼芸が実質上の美濃守護となりました。

それから12年後の天文十一年(1542年)に道三が頼芸を追放していますので、卜全がお家騒動~美濃守護時代の頼芸に仕えていたのなら、この間に少なくとも元服していなければなりません。

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元服する年齢については個々人で幅があるものの、卜全が15歳で元服したと仮定すると、

・永正十四年時点で頼芸に仕えていた場合→文亀二年(1502年)前後生まれ

・享禄三年(1530年)の場合→永正十二年(1515年)前後生まれ

・天文十年(1541年)の場合→大永六年(1526年)前後生まれ

と、おおよその見当をつけることはできます。

後述する卜全の次男・氏家行広が天文十五年(1546年)生まれとされています。その上に長男・氏家直昌がいますので、少なくとも1540年代初めには結婚していた年齢となるはずです。

また、卜全の母方の年代からもある程度推定できます。

母親は、長井利隆の娘でした。やはりこの時代のことですので、彼女の生年はわかりませんが、利隆は文安二年(1445年)生まれとされています。

となると、卜全の母は1460~1490年代ごろの生まれとみていいでしょう。

これらのことを総合してみると、卜全の生年は1500~1510年代あたりが妥当ではないかと思われます。

あくまで私見ですが、これならば享年59説とも合致します。

生まれの話が少し長くなってしまいました。

では、卜全の生涯を追いかけていきましょう。

 

龍興に軽んじられ織田家へ

彼は斎藤道三が亡くなった後、斎藤義龍・斎藤龍興に仕え、安藤守就・稲葉一鉄とともに「美濃三人衆(西美濃三人衆)」と呼ばれました。

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信長の生涯を記した『信長公記』には「美濃三人衆」と記されています。

義龍が道三を討った【長良川の戦い】で、彼ら三名は既に義龍の味方でしたので、道三に対しては何らかの思うところがあったのでしょう。

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しかし、龍興は祖父の代からの重臣を軽んじていくようになります。

美濃の中心から、次第に疎遠にされていく三人衆にとっては、当然ながら斎藤氏を見限る選択肢も入ってくるわけです。

と、そんな絶妙のタイミングで美濃への攻撃を仕掛けていたのが織田信長。

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ここぞとばかりに調略を仕掛けると、三人衆も織田家への内通に応じることにしました。

要は、斎藤氏の本拠・稲葉山城攻略の手助けをしたのですね。

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これが永禄十年(1567年)のこと。

卜全は、この時点で既に出家しており、同名を名乗っていたようです。

現代でも”直元”より”卜全”で知られているのは、織田家に来た時点で後者を用いていたからなのでしょうね。

以降は信長に仕え、数々の戦に参加しました。
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