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【丹羽長秀】
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安土城普請の総奉行を任されて
五郎左のままで結構――。
というのは世間的な地位や名誉などいらないから、ずっと信長や織田家のために働きたい……という意味だったのでしょう。
最終的には信長のゴリ押しによって、長秀はこれを受け入れたものの、欲のなさがわかるエピソードです。
長秀に姓だけが許され、官位が与えられていないことから、
「信長は長秀を高く評価していなかった」
とする向きもあるようですが、それは違うと思われます。
なぜなら、天正四年(1576年)から始まった信長の一大事業【安土城の普請】では、長秀が総奉行を務めているからです。
もしも評価が低かったら、地下一階・地上六階という、現代建築にも匹敵する巨城の最高責任者を任せるはずがありません。
なんせ官位を与えられた羽柴秀吉も、安土城普請では長秀よりも下の縄張奉行とされています。
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むしろ家臣間のパワーバランスを取るために、信長は長秀への官位を願い出なかった……と見るべきではないでしょうか。
戦場のような派手な仕事ではない。
その代わりに、安土城普請は長秀の誇りとなったことでしょう。
本来は天守(安土城では”天主”)には象徴的な意味合いが強く、住居として使われないものでしたが、信長は安土城の天主で日常生活を送っていたといわれています。
長秀以下、天主建築に携わった人々が、本当に良い仕事をしたのでしょうね。
重要イベント御馬揃えでは先頭に抜擢
長秀のようなナンバー2タイプだと、時に、いまいち能力や人望が足りなかったからトップになれなかった――そんな評価が下されるかもしれません。
それは逆のような気がします。
非常に優れた能力だったからこそ、安心できる補佐として常に二番手・三番手の位置に据えられたとも考えられる。
例えば、天正八年(1580年)の北陸一揆攻めでは、若狭・小浜の地で船運をコントロールし、加賀一向一揆勢に物資が補給できないようにしています。
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ほかにも裏切り者や態度が曖昧だった大名の始末なども、長秀がよく任されていました。
後者はあまり気分の良い仕事ではありませんが、長秀が冷静に仕事をこなせる人物だからこそでしょう。
ヘタに情が厚い人物に任せてしまうと、助命嘆願などをして信長の逆鱗に触れたり、こっそり命を助けたりして、後々への禍根になりかねません。
比叡山焼き討ちの際にも、秀吉がこっそり助けた僧や一般人がいたらしいという話もあります。
信長の目をかいくぐろうとする者は、いくらでもいたはず……というか、殺害命令を出された黒田官兵衛の息子・松寿丸(黒田長政)を、竹中半兵衛が匿っていたこともありましたね。
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上記の一件は、信長の早とちりというか、状況的には仕方ないんですけど、すべてがそういうケースばかありじゃありませんしね。
やはり信頼関係が大事なのでしょう。
天正九年(1581年)の【京都御馬揃え】では、なんと長秀が一番に入場しています。
「御馬揃え」とは、簡単に言えば軍事パレードのこと。
このときは正親町天皇や多くの皇族・公家も居並ぶ、織田家の名誉をかけたものでした。
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織田家の威信をかけた御馬揃えですから、当然、その先頭は最も優れていて、そつなくこなせる人物でなければなりません。
キャラクター豊かな織田軍団の中にあって先頭。
能力の高さだけでなく、他の諸将から見ても「長秀さんならしゃあないっすね」と周囲を納得させる心情もあったかもしれません。
いずれにせよ普通ではできないことでした。
四国に渡ろうとしたとき本能寺で……
天正十年(1582年)2月になると、織田軍は甲州征伐を始めました。
武田勝頼率いる武田家の領地へ直接攻め入り、これを滅ぼしたのです。
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長秀は、総大将の織田信忠軍ではなく、後詰めとして向かった信長軍の一員として参加しておりました。
そのため戦功はさほどなかったようですが、武田家滅亡の後、草津温泉での湯治を許されています。
他に堀秀政・多賀常則も一緒だったそうなので、信長なりに器用なタイプの家臣たちを気遣ったのかもしれませんね。
堀秀政は「名人久太郎」と呼ばれ、信長の側近から大名になった名将。
多賀常則はあまり出自や消息のはっきりしていない人物ですが、元浅井氏の家臣で、元亀元年(1570年)までには信長に仕えていたと考えられています。
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甲州征伐からおよそ3ヶ月後。
丹羽長秀は、四国攻めに向かう信長の三男・織田信孝、そして信長の甥である津田信澄と共に大坂に滞在していました。
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この直前には安土城で徳川家康の接待をしており、大坂でも家康の応対を務めています。
信孝らと合流したのはその後でしょう。いかに丹羽長秀が万能タイプとはいえ、信長はちょっと仕事をさせ過ぎな感もありますね。
長秀は信孝を補佐して、四国に渡り、長宗我部元親の攻略にあたる予定でした。
いやいや、長宗我部元親はすでに織田家に屈しており、挨拶程度の行軍だった――という見方もあります。
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いずれにせよ、そのタイミングで長秀の人生も激変します。
本能寺の変が起きたのです。
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織田家臣筆頭のポジションを利用された!?
天正10年(1582年)6月2日。
信長の死後――事態はにわかに動きます。
丹羽長秀はまず信孝の意向を汲み、近隣にいた津田信澄に襲いかかって、自害させました。
ややこしいことに信澄は信長の甥っ子であると同時に、明智光秀の婿でもあったのです。
しかも、信澄の父は、かつて織田信長が殺害した織田信行ですから、甥っ子と言っても信長サイドから見れば微妙な関係だったのですね。
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光秀は他の縁戚にも根回しをしていなかったようなので、おそらく信澄は無関係だったでしょう。
それでも殺されたのはスケープゴートかと思われます。
長秀はその後、【山崎の戦い】で秀吉に付き、早い時期に立ち位置を安定させました。
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清州会議では若狭に加え、近江の滋賀・高島の二郡を安堵され、大溝城(高島郡)に移りました。ここは信澄の居城でもありましたので、信澄の家臣たちを牽制する意味もあったのでしょう。
長秀は織田家の中で、勝家に続く「二番家老」という立ち位置でしたから、主君の仇討ちをした秀吉にとっては目の上のたんこぶに近い状態です。
それでも決して衝突しようとはせず、事後処理も秀吉ほか多くの武将と協力して行っています。
書状などでは、自ら秀吉に許可を求めるような、へりくだった書き方をしているものも珍しくありません。
「”羽柴”という姓の”羽”は長秀にあやかろうとしたもの」
ともされていますので、秀吉も多少は長秀を立てる気持ちもあったでしょう。
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本人には野心がなかったからか。
あるいは秀吉が三法師(信長の嫡孫・後の織田秀信)を支持したからなのか。
長秀はその後も秀吉派として動きました。
織田家内での立場は依然として長秀が上だったものの、実力は秀吉のほうが上になっており、ねじれた関係と言えます。
秀吉が発行した禁制に、ほとんど長秀の署名があることがその証左です。
この頃の長秀は「織田家筆頭」という立場を秀吉に利用されていたのでした。当然、長秀にとってはあまり面白くはなかったでしょうが……。
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