織田信忠

織田信忠/wikipediaより引用

織田家

信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯

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鷹の子を四羽育て信長に献上

戦国武将も人間であるからには戦ばかりしているわけではありません。

むしろ日常生活や内政に費やしている時間のほうが多い。内容こそ違えど、衣食住や趣味などについては、現代人と共通する面がなくもありません。

信長は鷹狩相撲が有名ですかね。『信長公記』にその表記が何度も出てきます。

一方の織田信忠については、これぞ!という趣味が伝わっていません。

ただし、いくつか当人の好みが垣間見えてくる話はあります。

天正五年(1577年)秋:イベント見物

謀反を起こした松永久秀討伐のため奈良へ出陣した信忠。

久秀の本拠である信貴山城を包囲する前に奈良の猿沢池を見物したとされます。

また同じ年に尾張の津島祭に出かけていました。

一見共通点が見えにくいですが、「現地の名物を見に行くことや、地元民と接触する機会を重視していた」と考えると、似通った意味があるのかもしれません。

天正六年(1578年)7月:鷹の子を四羽育て上げて信長に献上

『信長公記』に載っている話です。

上述の通り、この頃には信長から家督が譲られていて、岐阜城の主は信忠でした。

いつ頃から手掛けたのかは不明ながら、岐阜城あるいは近辺のどこかで鷹の子を育て、それを鷹狩好きの信長に贈った……という話ですね。

人の手で鷹の子を育てるのは非常に難しいとされ、四羽ともなれば多大な労力だったことは間違いないでしょう。

信長のご機嫌伺いという目的であれば別のものでよかったわけで、信忠もかなりの鷹好きだったのでは?

奥羽の大名から鷹が贈られるという話はよくありますが、自分の手元で育てたという人や話は珍しいです。他に生き物に関する記述がないので、あくまで可能性の話ですが。

なお、信長は一羽だけ受け取り、残りは信忠に返したそうです。信長のもとへ鷹を届けた鷹匠二人には、「育てるのは大変だったろ」として褒美が与えられたとか。

「苦労して育てたのだから、信忠の手元で多く使うのがいい」と考えたのかもしれません。信長の親らしい一面も見える話になりそうです。

・音楽や能が好き?

信忠には、いくつか芸術にまつわる話が伝わっています。

側近の笛を聞いて「師匠は誰か?」と訪ねたことがあったとか、能に熱中しすぎて信長に怒られ、道具を取り上げられてしまったとか。

能道具を取り上げられたことに対して怒ったとか陰で愚痴ったという話もないので、信忠は徹頭徹尾、父に従順だったと思われます。

反骨心が強い人だと、些細なきっかけで仲がこじれたりしますしね……と、和む話はこの辺にして、血なまぐさい話へ戻りましょう。

 

徐々に「織田の総大将」へ

こうして少しずつ権力を移乗されていった織田信忠。

天正五年(1576年)からは軍事分野でも、その動きが現れてきます。

同年2月の雑賀攻めではまだ信長が総大将で、信忠は副将のような立ち位置から信雄などの一門を率いていました。

そして前述の松永久秀討伐から、いよいよ信忠は総大将として出陣するようになるのです。

翌天正六年(1577年)4月には、石山本願寺攻めのため、一門や滝川一益明智光秀丹羽長秀などの重臣たちを率いて信忠が出陣。

このときは本願寺側が打って出なかったため、周囲の田畑を薙ぎ払って終わっています。

同じく4月、信長が右大臣を辞任して「嫡男の信忠に高い官職を譲りたい」と朝廷へ申し出ていました。

対外的に「次の当主は信忠であり、これはもう揺らがない」と示す意味があったことがうかがえますね。

また、中国地方の毛利氏攻略を進めていた羽柴秀吉が、別所氏に裏切られて挟撃されると、信忠が5月に出陣し、播磨にとどまりながら8月までに別所氏の城をいくつか落としています。

活躍しているのは、むろん信忠だけでなく、各方面軍の活躍で、織田軍は四方八方へ勢力圏を広げていきました。

しかし同年10月、織田家にピンチが訪れます。

有岡城の荒木村重が謀反を起こしたのです。

西へ行くにも南へ行くにも、京都から見て通り道になる有岡城は摂津エリアの要衝であり、当然ながら放置はできません。

 

 

信長も危機感を抱いたのでしょう。11月に摂津へ出陣して信忠と合流しています。

このときも実質的な総大将は信忠で、信長はあまり指示を出していません。

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天正八年(1580年)8月には、佐久間信盛林秀貞安藤守就が追放され、織田家は構造改革を実行。

信長の理不尽な対応としてよく例に出されますが、

「俺が倅に家を譲って模範を示したというのに、老臣どもがそれに倣わないのはけしからん」

と考えたのかもしれません。

特にこの三人は「能力がないではない。されど、他の人と比べて大きな功績もない」という点が共通しており、「働かないヤツは重臣だって解雇だぜ」という見せしめにも見えてきます。

まぁ、見せしめだとしたら、信長の言葉が足りなさ過ぎるような気もします。

何はともあれ、追放された重臣たちの与力(陪臣)や領地が信忠の支配下に入り、一気にその影響力は増してゆきました。

 

信玄の娘・松姫との婚約

ここまででお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。

織田信忠の生涯を振り返っているのに「結婚」とか「女性」の話が殆ど出てこない。

戦国大名、しかも家督を継いだ者が妻を迎えない=子供を作らないというのは言語道断。

そこにはもちろん(?)、理由がありました。

時を遡って、信長が美濃を取ったばかり(永禄十年=1567年)の頃の話です。

当時、敵に囲まれた織田家に余力はなく、領地を接する上に信玄がまだまだ現役な武田家と事を構えるのは得策ではありませんでした。

そのため信長は一度頭を下げて、信玄へ同盟をもちかけたのです。

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このとき信長の姪っ子を養女として勝頼に嫁がせたのですが、彼女は子供を産んですぐに亡くなってしまいました。

そこでもう一度婚姻を結ぶために選ばれたのが、信玄の六女である松姫だったのです。

時勢が落ち着かないこと、当人たちがまだ幼いことにより、松姫はすぐには嫁いで来ませんでした。

甲斐では「信忠夫人」として扱われ、別の屋敷で育てられていたといいます。

しかし……。

結婚適齢期に入る頃には、時勢の変化によって織田と武田が手切れとなり、婚約は解消へ。

松姫はその後も他家へ嫁いでいないため、異母兄である勝頼がどのような心づもりでいたのかはよくわかりません。

一方で信忠も正室は迎えておらず、これまた理由がよくわからないところです。

松姫のことが心残りだったのか、それともどこか適切な家の姫を見繕っていたのか。

信長も正室との間には子供がいないとされているため、「正室なんていなくても問題ないでしょ?」なんて考えていた可能性もなくはないですかね。

一説には「その後も信忠と松姫は文通していた」ともされていますが、残念ながら物証は残っていません。

松姫が処分してしまったのか、それともにこの話自体が後年の創作なのかは判断がつきづらく……松姫については、また後ほど考察しましょう。

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