織田信忠

織田信忠/wikipediaより引用

織田家

信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯

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甲州征伐

織田信忠が最も活躍した合戦は何?

代表的な戦いは?

その質問に対する答えは、やはり天正十年(1582年)の【甲州征伐】が相応しいでしょう。

武田家では、敵方の織田に内応する家臣が現れていて機は熟した状態。

同年2月9日に武田領への侵攻を命令すると同時に徳川や後北条にも協力を求めました。

織田家では金森長近を飛騨方面から、伊那方面から信忠を先行させ、その後には家老役の河尻秀隆はじめ、滝川一益森長可なども従いました。

出発は2月12日。

順調に武田領へ進んだところ、大島城(現・長野県下伊那郡)ではろくな戦にならず占拠に成功し、信長公記によれば近隣の農民も織田軍を歓迎したといいます。

信長はこの間も信忠の進軍状況を知るべく、使者を出して調べさせていました。

すると「信忠卿は大島におられ、特段問題ないようです」との報告。信長としては苦戦しているようであれば自分も急いで出陣するつもりだったのでしょうか。

当初、信長は自分で後詰役になり、信忠と合流してから決着をつけるつもりでいたようです。

しかし戦況から「急ぐべき」と判断した信忠は、独断で侵攻を進めていきました。内応も相次ぎ、戦闘すらあまり起こらなかったためでしょうか。

重臣で、信玄の甥でもある穴山梅雪が寝返ったほどですから、当時の武田領の空気や推して知るべし。信忠が

「父上の返事を待っていたら、武田を滅ぼす好機を取り逃してしまうかもしれない」

と判断しても不思議ではありません。

その中で唯一大きな戦となったのが、武田勝頼の異母弟・仁科盛信の守る高遠城です。

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彗星の観測や浅間山噴火等、当時「不吉」とみなされていた自然現象が続いて起こる中で、信忠は3月1日に高遠城の手前に到着しました。

周囲の地形等を調べさせた上で、信忠が高遠城総攻めを始めたのは3月2日早朝。

かなりスピーディーに事を進めたことがわかります。

保科正直という武田方の武将が城から内応しようとしたところ、信忠まで伝わる前に織田軍の攻撃が始まったとか。正直はなんとか脱出に成功し、後々徳川家に仕えています。

信忠はなぜか高遠城攻略を異様なほど急いでおり、これまでにない“殺る気”をギラギラさせていました。

なんでも「自ら武器を手にして、兵たちと競うように塀の上に登り、号令した」そうで。

大将として危険すぎる行動ですが、織田軍の士気は格段に上がりました。

殿様が敵のど真ん中に突っ込んでいくのを小姓や馬廻りの者たちが見過ごせるわけがないですよね。

なぜ信忠が自らの身を危険にさらしてまで、高遠城攻略を急いだのかは不明です。

父が来る前に華々しい功績を上げておきたかったのか、何か別の理由があったのか……。

そこで影響したかもしれないのが、前述の松姫です。

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松姫はもういない 武田も滅亡した

実は高遠城の主である盛信は、松姫の同母兄でもありました。

彼女自身が一時期身を寄せていたほどです。

そして織田軍がやってくる前に松姫は盛信の娘を連れて高遠城から甲府へ向かい、さらに勝頼の姫や重臣・小山田信茂の娘も連れ、関東へ落ち延びたとされています。

おそらくは盛信や勝頼が「女子供であれば、見逃されたり敵軍の目をかい潜れる可能性がある」と考え、成人していた松姫にその役を任せたのでしょう。

「IF」に「IF」を重ねるような話ですが、もしも信忠と松姫の間で文通が行われていたことが事実であり、信忠がこの機会に「何らかの形で松姫を保護したい」と考えていたとしましょう。

そして「松姫は高遠城にいる」あるいは「高遠城を出たばかりだ」というところまで信忠がつかんでいたとしたら?

個人的な感情を抜きにしても「名門武田の血を引く子供をもうけて、いずれ武田旧臣の懐柔策に使いたい」なんて可能性もあります。

そういった理由で信忠は、松姫の行き先を信盛から聞き出すため、信盛が切腹する前に城を攻略したいと考えた……というのは、さすがに妄想の域ですかね。まあ与太話ということで。

史実としては、高遠城は総攻めが始まった3月2日に落ち、盛信は自害しました。その首は信長のもとに送られています。

その後、信忠軍は進軍を続け、3月3日は上諏訪方面へ侵攻、諏訪大社を含めて周囲を焼き払いました。

このため後の不幸を「諏訪明神の神罰である」という人もいたとか。

平家の例を思えばそういわれるのも致し方ないところですが、諏訪大社は地元の武士と強く結びついていたという面もありますので、戦略として見た場合はヒドイともいいきれません。

勝頼や武田の重臣が逃げ込む可能性も懸念したでしょうし。

一方その頃、武田勝頼は妻子を連れて逃げ続けていました。

すでに味方の将兵がほとんどおらず、もはや一戦することも難しい状態。

あとは恥じない死に様を遂げるしかありません。

重臣の小山田信茂にも裏切られ、目指すは天目山棲雲寺――勝頼の先祖にあたる武田信満が自害したところです。

信忠は順調に武田領内へ侵攻し、3月7日には甲府へ到着。

ここで武田の一門や重臣を探し出し、成敗しています。織田軍の威風を見た近隣の武士たちは、信忠に降伏するため次々に名乗り出てきたとか。

信忠は、その対処に追われたのか、あるいは勝頼達の居場所を聞き出すためか、ここから数日間、甲府を動かなかったようです。

と、その間にようやく滝川一益が「勝頼一行が山中へ逃げていった」という情報を掴みます。

勝頼らが滞在しているという山梨郡田野の民家を一益に包囲させると、「もはやこれまで」と悟った勝頼は妻子を刺殺し、男たちは打って出て華々しく討死、あるいは自害したといいます。

武田勝頼と息子・武田信勝の首は一益から信忠に届けられ、信忠が実検した後に信長のもとへ送られました。

戦国大名としての武田氏は信忠によって滅亡に追い込まれ、その後、甲信の形勢は大きく変わっていくのでした。

 

信忠の判断で織田家が動いている

武田が滅亡したとき、信長はまだ岩村にいました。

3月5日には出陣していたものの、道中で盛信の首実検をしたり、雨に降られたりして進行速度が遅れたためです。

見方を変えると、織田信忠が自らの判断で名門・武田を滅亡へ追い込んだことになります。

信長にとってもこれは嬉しい誤算だったようで、信長公記では

「天下の儀もご与奪」=「天下を任せても良いと考えた」

と書かれています。

褒美として梨地蒔絵拵えの刀が信忠に与えられており、長男の手柄と成長を心から喜んだ様子が浮かんできます。

梨地とは金で梨の表皮のようにざらざらした装飾をつけることで、蒔絵は漆で描いた上に金銀を蒔く技法です。

ものすごく単純にいうと「鞘にめちゃくちゃ手間がかかった装飾がされている刀」=「超高級品」ですね。信長が信忠の働きに対して与えた評価がわかりやすく現れています。

また、勝頼が自害した3月11日には、武田から寝返った穴山梅雪が家康とともに甲府にやってきて、信忠に挨拶をしたことが記録されています。

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信長ではなく信忠に、というのがミソですね。距離的な理由かもしれませんが。

甲州征伐で信忠に従った武将には、大きな領地を得た者もいます。

河尻秀隆:甲斐丸ごと

森長可:信濃で四郡

毛利長秀:信濃で一郡

甲斐・信濃へ侵攻したので、織田家ひいては信忠は、上杉氏や北条氏を強く圧迫する形になりました。

彼らは織田家による武田征伐をどう見ていたのか?

北条氏は織田軍の侵攻スピードをおおよそ掴んでいたようですが、積極的に協力する姿勢が見えなかったため、信長から疑われることになります。

天正八年から信長の娘と北条氏の嫡子・北条氏直との縁談が進んでいたというのに、思い切りの悪いことです。

ほんの少し前まで武田-北条の同盟があったため、複雑な心境だったのかもしれませんが。

また、遠方では事実と異なるデマが多々流れていたようです。

北陸では「信長が討ち死にした」、中国地方では「信忠以下の織田軍が多く討ち死にした」などなど。

当時の情報・通信事情を考えれば仕方がないのかも知れませんが、「それってあなたの願望ですよね……」とでもツッコミたくなりますね。

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