織田信忠

織田信忠/wikipediaより引用

織田家

信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯

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毛利との対決に出陣要請

武田征伐の後は三男・織田信孝が四国遠征の大将に任じられ、信忠が餞の品を送っています。

記録上の両者はあまり接点が見られませんが、弟としてきちんと扱っていたということでしょう。

そして羽柴秀吉から中国攻めに関して信長へ出陣要請が届きます。

毛利輝元が自ら出陣してきたため、ぜひとも信長様御自らのご出馬をお願いしたい」

中国地方8カ国に領地を有する強大な毛利。

輝元は言わずもがなその当主であり、全面対決を意識していたかどうか、本心は不明ながら信忠も信長と共に西へ向かいます。

信長は5月29日に京都へ到着し、本能寺へ宿泊。

この年の5月は29日までだったので、翌日は6月1日です。

親交の深い近衛前久父子をはじめ、公家衆が本能寺に来て挨拶や雑談していました。おそらくは信忠も同席したと思われます。

信長はその夜、上機嫌でこれまでの足跡を語り、右筆の村井貞勝や側近の小姓にまでねぎらいの言葉をかけたとか。

信忠も深夜まで信長と飲み交わしたそうで、さぞかし美味しいお酒だったことでしょう。

甲州征伐の首尾を考えれば、信忠への期待はさらに高まっていたはず。

そして信忠が自分の宿所である妙覚寺へ引き上げて数時間後、あの本能寺の変が起こったのでした。

 

本能寺の変

本能寺で信長が襲われたのは、天正十年(1582年)6月2日の午前4時頃とされています。

織田信忠はまだ就寝中でした。

妙覚寺へは数時間前に着いたばかりですから、それも当然のことです。

明智謀反の知らせを受け、信忠はすぐに本能寺へ向かおうとしました。

しかし、途中で村井貞勝父子から「既にご自害された」と聞き、宿所の妙覚寺には戻らず、二条御新造へ。

二条御新造はもともとは信長が京都での宿所として建てたものを誠仁(さねひと)親王に献上されていて、妙覚寺よりは防護機能もあり、籠城戦向きだと考えられたのです。

信忠は光秀軍と交渉して誠仁親王一家と女性たちを逃し、二条御新造で最後の一戦に臨みました。

小勢ながら、一時間以上に渡って抗戦したといわれています。

業を煮やした明智軍が、二条御新造隣の近衛邸から弓や鉄砲を撃ってきたり、放火したりしたため「これまで」と悟り、信忠は遺骸を床板の下へ隠すよう命じて自害したとか……。

享年26の短い生涯でした。

もしも信忠が途中で村井貞勝らと出会っていなかったら、どうなっていたか?

後世の人間が言っても詮無いことですが、信長の偉業のひとつ【金ヶ崎の退き口】を思い描いていたら……。

四国遠征軍として予定していた織田信孝や丹羽長秀のもとには、1万4000前後の兵がいたとされています。

本能寺の変当日の明智軍の兵数は諸説ありますが、多くて2万程度と思われるので、信忠が大坂へ逃げきることができれば正面から戦えた可能性もありました。

四国攻略軍の中にいた従兄弟の津田信澄も助かったのではないかと思われます。

史実では信澄の妻が明智光秀の娘だったため、内通を疑われて信孝や長秀に殺されてしまいました。

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諸々の逸話からすると信孝は頭に血が上りやすいタイプだったと思われますが、信忠ならばそのあたりを冷静に指摘できたのではないでしょうか。

秀吉はおそらく史実と同じように行動したと思われるので、毛利軍と密かに停戦し、夜を日に継いで上方へ向かったでしょう。

その道中で信忠の生存を知れば、信忠を仰いで光秀討伐に動いた可能性が高そうです。

つくづく、信忠の従順さや潔さが裏目に出た形といえます。

まぁ、私などに指摘されるまでもなく大坂への逃亡なども当然考えたのでしょう。そして重々承知の上で最期の戦いに挑んだ……。

と、IFの話はその辺にして、最後に信忠の人柄を戒名から推測してみましょう。

 

戒名は「大雲院仙巌」

信忠の戒名は「大雲院仙巌」といいます。

信長は「総見院泰巌安公」なので「巌」の字が共通していますね。

巌は「大きくどっしりした岩」という意味ですので、信忠には信長と似たような重々しい雰囲気もあったということでしょうか。

肖像画からも似通っていたことがわかるので、外見や雰囲気はよく似た父子だったのかもしれません。

また、「仙」には非凡な才能を持った人という意味があります。偶然の一致なのか、幼名の「奇妙」と似ていますね。

これらを併せて考えてみると、やはり信忠は「信長の後継者としてふさわしい人物だ」と広く認められていたことがうかがえます。

院号からすると信長は「家中を総て見ていた人」、信忠は「家中を覆う大きな雲のような人」といったところでしょうか。

本能寺の変に関する文書は信長公記の他、宣教師の記録や奈良の僧侶の記録などがありますが、そのほとんどが信忠最期の戦いぶりを称賛しており、外部からの評価もかなり高かったようです。

そしておそらくは遺児となった三法師にも語り継がれたからこそ、長じて織田秀信となった彼は関が原の際に「さすがは信長公の孫」と称えられるほど奮戦したのでしょう。

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信忠が本能寺の変で諦めず、落ち延びて明智光秀を討伐していたら、少なくとも秀吉政権は誕生せず、織田の血が続く限りは徳川幕府も成立しなかったはずです。

日本史において最も夢のあるIFが実は「織田信長の生存」ではなく「織田信忠の生存」なのかもしれません。

なお、かつての婚約者だった松姫は、本能寺の変が起きた年の秋に八王子で出家し、江戸時代まで生き延びています。

後に家康が武田旧臣を多く迎えたこともあり、彼らの支えにもなっていたようです。

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現代では八王子市のゆるキャラ「松姫マッピー(→link)」としても存在感を残しています。

そして松姫の出家後の名は「信松尼」。

「信」の字が父・信玄や武田家からきているのか、顔すら合わせられなかった元婚約者・信忠からきているのか。

考えるとロマンがありますね。

信忠は信長と比較して記録や逸話が少なく、なかなか話題になりにくいというのが正直なところ。

しかし、その能力が決して信長の息子として恥じないものだったことは疑いようがありません。

近年では戦国時代を題材としたゲームでも登場するようになりましたし、信忠を主役とした小説も見かけるようになりました。

良いキャスティングの映画や長時間ドラマなどが作られれば、間違いなくさらに人気が出て、研究も進むのではないかと思います。

そして研究が進むごとに、早すぎる死を惜しむ人もさらに増えることでしょう。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
織田信忠―天下人の嫡男 (中公新書)(→amazon
<織田信長と戦国時代>父の背を追い戦場へ 覇王の後継者織田信忠 (歴史群像デジタルアーカイブス)(→amazon
現代語訳 信長公記 (新人物文庫)(→amazon
織田信忠/wikipedia

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