織田信秀

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用

織田家

織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯

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織田信秀
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三河の松平へ攻め込んだり、美濃の蝮とやりあったり

八面六臂な織田信秀の有り余るパワーは、さらに拡大していきます。

弟達に城を与えたりしながら、培った戦力を織田の本家や主君・斯波家の乗っ取りに向かうのではなく、他の地域へ向けました。

この辺がエライというかうまいというか。

後々、信長の時代に「織田大和守家vs斯波家」のイザコザが起きたとき、偶然他の場所にいて助かった斯波家のお坊ちゃんが、信長のところへ逃げてきています。

信長はこのお坊ちゃんこと斯波義銀をお神輿にして、また戦略を練っていきました。

もしトーチャンの時代に斯波家ともめていたら、この展開はなかったでしょう。

さらに信秀は、お隣・三河で松平清康(徳川家康の祖父)が不慮の死を遂げる【森山崩れ】という事件が起きると、その隙をつくため三河に攻め込みます。

しかし、そのことで「東海一の弓取り(武士)」こと今川義元と真っ向から対立することになりました。

今川義元
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは

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それだけではありません。

お隣・美濃では「蝮」と呼ばれる斎藤道三が下克上を成功させており、新たな敵となってしまいます。

斎藤道三
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織田家の尾張から見て美濃は北になりますが、こちらでは城を取ったり取られたり一進一退が続くようになります。

その上、家中では長男をうつけ呼ばわりして、アレコレ良からぬことを企み始める輩が出始めるわ、身内の反乱が起きるわ。

信秀にしてみれば、まさに内憂外患といった状況に陥っていきます。

まぁ、半分くらいは自分で種蒔いてる気がしますが。

 

「斎藤家の姫をもらって和睦の道を開け!」

織田家は、東に位置する今川家にも押され始め、何とかして打開を図らねばなりませんでした。

そこで織田信秀が「信長の爺や」こと平手政秀に命じたのが、

【斎藤家の姫をもらって和睦の道を開け!】

というものです。

平手政秀
信長の爺や・平手政秀が自害したのは息子と信長が不仲だったから?

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要は、縁談ですね。

じいやの頑張りによってこれがうまくいき、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)が信長の元に嫁いでくると、ひとまず美濃方面は片付きました。

濃姫(帰蝶)
信長の妻で道三の娘である帰蝶(濃姫)史実ではどんな女性だった?

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この婚姻は、信長の「嫡男としての立場を盤石」にする意味もあったと思われます。

というのも織田家では、信秀の死後、織田信長織田信勝(信行)の兄弟が家督を争うということがありました。

彼らの母は共に土田御前

二人とも正室の息子ゆえに後継者としての資格があり、例えば重臣の柴田勝家なども当初は織田信勝派だったわけです。

土田御前
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しかし、そんな信長のもとに帰蝶が嫁いできました。

帰蝶個人に織田弾正忠家の家督うんぬんは関係ありませんが、

【“嫡子の正室”が隣国との和平の楔である】

ということは、極めて重要です。

信長が不慮の事故等で亡くなったなどの致し方ない理由で、弟の織田信勝に再嫁する……というならばともかく、信長が無事なのに廃嫡してしまうと、帰蝶の立場がなくなってしまいます。

だからといって実家に送り返しでもすれば、今度は道三(斎藤家)に対して「お前との戦を再開するから、娘は返すわ^^」とケンカを売るも同然。

要は、斎藤氏との関係を強調することで、信長の家督継承を円滑にする狙いだったのかと。

となると信秀は、信長の底知れぬ才能を見抜いていた可能性もあり、それを弟の織田信勝にもよく説得しておけば、謀殺事件なども起きなかったのかもしれません。

織田信勝(織田信行)
兄の信長に誅殺された織田信勝(織田信行)最後は勝家に見限られ

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20人以上の子供がおり

斎藤家との和睦を果たした織田信秀は、今川家を攻めあぐねていたところで、亡くなってしまいます。

没年には諸説あります。

天文十八年(1549年)11月に信長が信秀の代理として、熱田に制札(せいさつ/寺社などに立てる箇条書きの禁令)を出しています。

この時点で、少なくとも家中には「信秀の体調が優れない」ということが知られていたのでしょう。

一説には40過ぎてなお、昼も夜もお盛んだったために命を縮めたともいわれますが、はてさてどうだったやら。

確認されているだけで信秀には20人以上の子供がいますので、あながちナイとも言い切れませんね。

なお、信秀の葬儀で「信長が焼香を投げつけた」という有名なエピソードがありますが、これまた『信長公記』に記されています。

よろしければ以下の記事をご参照ください。

焼香投げつけ、政秀自害~戦国初心者にも超わかる信長公記9話

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もし生きていれば天下を目指したのか?

信長の父である織田信秀は、天下を意識していたのか?

天下の範囲設定が難しく、あくまで個人的な妄想ですが、もしも生きたまま【桶狭間の戦い】(永禄三年=1560年)まで時代が進んでいたら、少なからず信秀も意識しのではないでしょうか。

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然か『信長公記』にはどう書かれてる?

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いったんは揉めた斎藤家と和睦。

今川家には戦と外交手段を使い分けて対応している様子は、単なる暴れん坊ではないキレ者の姿を彷彿とさせます。

信長と親子で事にあたった可能性もおありでしょう。

もちろん「船頭多くして船山に登る」という考え方もありますが、合理的な性格の信長でしたら、信秀もまたそういう性質であったことが考えられ、なかなか楽しい親子コラボになった気がします。

てなわけで、信秀の功績や人柄をまとめてみますね。

信秀の凄いとこ

・経済力を重視する

・目的に合わせて柔軟に居城を変える

・朝廷や公家にも適度に接近し、パイプを保っておく

・子供も適度に作っておく

・ときには派手な催しをし、人心を掴む

いずれも信長に共通するスタンスではありませんか?

信長の強烈な部分のイメージが強すぎて、現代人からすると意外ですが、似た者親子ともいえます。

こうしてみると、信秀に関する最も有名な「信長が、信秀の位牌に抹香を投げつけた」というエピソードは、やはり父への親愛の裏返しなのでしょうね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
『事典にのらない戦国武将の死の瞬間 (別冊歴史読本 (31))』(→amazon
織田信秀/wikipedia

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