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【柴田勝家】
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義昭奉じての上洛戦にも参加
明智光秀や細川藤孝の働きにより、足利義昭を奉じて上洛することになった織田信長。
その永禄十一年(1568年)の上洛戦から、再び柴田勝家は前線で働く記録が見受けられるようになります。
合間に京都の軍政にも携わっています。
記録にない8年間で何があったか不明なれど、この頃は信長の心証や評価も高かったと見てよさそうです。
永禄十二年(1569年)1月【本圀寺の変】に対する上洛や、同年8月の伊勢侵攻にも参加。
元亀元年(1570年)4月の越前攻めの最中に浅井長政が離反し、岐阜と京都との行き来がしにくくなると、信長は勝家ら配下の武将を琵琶湖南岸に置き、道を確保しました。
美濃~京都ルートは、織田家にとって非常に重要な交通路です。
その一角を任されたのですから、【鬼柴田】と恐れられる実力者だったことは間違いないでしょう。
同年6月には浅井・朝倉両氏と姉川の戦いが勃発。
こちらにも勝家は参加しております。
この戦いは、最初は織田勢が押されながら、途中、徳川の奮起があって、織田徳川連合軍が勝った――というのが通説ですが、実際は言うほど勝利ではないのでは?というツッコミもあります。
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信長上洛後の戦にほぼほぼ参加
その後も勝家は、織田家の動向に伴い、合戦の日々が続きます。
【織田家と共に歩んだ柴田勝家の戦歴】
◆上方での勢力を取り戻そうとする三好三人衆との戦
→三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3武将が畿内で暗躍、永禄の変では足利義輝が討たれる(結果、義昭が擁立される)
◆石山本願寺攻め
→本願寺顕如や下間、雑賀衆などが立ちはだかり10年以上対立
◆長島一向一揆
→伊勢長島の一向宗を大量虐殺
→延暦寺の僧侶らを数千人焼き討ち(大量の遺体や焼失跡が発掘されず、殺害の実数は疑問視されている)
◆槙島城の戦い
→足利義昭を京都から追い出した
◆一乗谷城・小谷城攻略
→越前の朝倉義景・近江の浅井長政を滅ぼす
→武田勝頼ら武田軍団相手に完勝する
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信長に関わる合戦のほとんどですね。
大まかにまとめると「勝家は信長が上洛して以降の戦には、ほとんど参加していた」といえるでしょう。
刀狩りや道路整備 時代は大きく変わりスポーツも!
勝家の後半生に大きく関わる越前との縁は、天正三年(1575年)8月、越前一向一揆から始まりました。
ここでの功績で、勝家は越前に49万石と北ノ庄城(福井市)を与えられます。
北ノ庄城に着任した後は、両国経営にも力を入れ、領民からも比較的良い領主と思われました。
刀狩りで集めた武器を農具などに鋳直したり。
道路や橋の整備をして領内の行き来を便利にしたり。
一般的に勇猛な武将というイメージの強い柴田勝家ですが、同時に政治的能力も有していたことがわかります。
天正四年(1576年)には北陸方面の総責任者に任じられ、前田利家・佐々成政・不破光治・佐久間盛政などをつけられました。
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かなり有力なメンツが揃っておりますね。
隣国の加賀は90年も一向一揆が勢力を保っていた地域なので、そのくらいの緊張感が必要だったでしょう。
その先には、別の強敵もおりました。
上杉謙信です。
強敵・武田信玄は既に没しておりましたが、越後の龍はまだ健在。
織田家にとってこの軍神は、強大な敵でした。
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