柴田勝家

柴田勝家/wikipediaより引用

織田家

柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか? 織田家を支えた宿老62年の生涯まとめ

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手取川で謙信にフルボッコ?

天正五年(1577年)7月。

越後の上杉謙信が加賀へ進出しました。

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当然ながら、この強敵と対するのは柴田勝家です。

ヘタをすれば織田家の屋台骨を揺るがしかねない相手を前にして、このとき信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)も援軍として送り出したのですが、あろうことか秀吉は軍議で勝家と衝突。

修復不可能なほど関係が悪化してしまいます。

そして秀吉は、勝手に戦線を離脱します。

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そのため柴田勝家は単独で七尾城(七尾市)の救援に向かいましたが、とき既に遅く陥落しておりました。

さらにここから撤退している途中、手取川で上杉軍に襲われて敗北を喫します。

いわゆる【手取川の戦い】です。

同合戦については記録が少なく、被害が大きくはなかったのでは?

とも言われておりますが、柴田勝家の敗北だったことは間違いないでしょう。

ちなみにこの半年ほど後の天正六年(1578年)3月、謙信が亡くなり、勝家がリベンジする機会はありませんでした。

鬼柴田とされる勝家でしたら、悔しかったことと思われます。秀吉だったら「ラッキー♪」ぐらいに平気で思っていそうですが。

天正八年(1580年)3月になると、勝家は、加賀一向一揆の中核である金沢御堂を攻略。

同年11月に加賀を平定し、能登・越中にも進出しました。

また、同時期に本願寺攻略の不首尾などを咎められた重臣・佐久間信盛が失脚。

勝家が織田家筆頭家老となりました。

 


京都の軍事パレードが絶頂期だったか

謙信、加賀の一向一揆と立て続けに強敵がいなくなり、織田家中でもTOPに上り詰めた勝家。

天正九年(1581年)に行われた京都御馬揃えでは「越前衆」として前田利家らを率いて参加します。

いわゆる軍事パレードで信長の威光を天下に知らしめるものですね。

信長にとっても勝家にとっても感慨深いものであったでしょう。

【京都馬揃えの抜粋】

◆一番部隊……丹羽長秀・摂津衆

◆二番部隊……蜂屋頼隆・河内衆

◆三番部隊……明智光秀・大和衆

◆四番部隊……村井貞成・根来衆

◆織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・織田信包のぶかね織田信孝・織田信澄(津田信澄

◆公家衆……近衛前久・正親町季秀

◆旧幕臣衆……細川昭元・細川藤賢(ふじかた)・伊勢貞景・一色満信・小笠原長時

◆九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆

◆十番部隊……柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門尉・不破光治・前田利家・金森長近・原政茂

◆十一番部隊……お弓衆百人

このころ勝家は、上杉攻略のため伊達家の重臣・遠藤基信も接触していたと言います。

そして、織田家の命運が劇的に変わる天正十年(1582年)。

3月あたりから勝家は、越中の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻めていました。

突然の凶報が届けられたのはその最中のことでした。

天正十年(1582年)6月2日、【本能寺の変】が起きたのです。

 


勝家が事の次第を知ったのは……

魚津城が3日に落城――柴田勝家が事の次第を知ったのはほぼ同時だったと思われます。

6日に軍を引き、北ノ庄城へ戻りました。

そして勝家は

『光秀は近江にいるだろう……』

と予測し、四国攻め準備のために大坂にいた丹羽長秀と連携して、光秀を討ち取ろうとしていたようです。

しかし、ほぼ同時に上杉方へも信長横死の件がバレ、能登・越中の国衆を扇動されたため、勝家は動けなくなってしまいます。

運命の分かれ道でした。

その間に秀吉は中国大返しを成功させて光秀と対峙。山崎の戦いで勝利すると、勝家よりも一歩先に踏み出したようなカタチになります。

山崎の戦いに決着がついたのが13日。勝家が動けたのは18日のことでした。

これにより秀吉は「主君の仇討ち」という最大の発言力を得ます。

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勝家は北陸攻略時での対立もあり、秀吉が推す三法師(信長の嫡孫・のちの織田秀信)ではなく、信長三男・織田信孝を推したようです。

最近では三法師擁立に対して、秀吉と勝家は合意していたという説もありますね。

しかし、信長の遺領配分については間違いなく対立しています。

戦功を背景に河内・丹波・山城などを得た秀吉に対し、勝家は北近江と長浜城(長浜市)を得ただけでした。

信長リベンジの経過からすれば致し方ない面もありますが、織田家筆頭家老という立場から考えると少ないですよね。

ちなみに信長次男の織田信雄は尾張・伊賀・南伊勢。

織田信孝は美濃を得ていました。

こちらは概ね妥当でしょうか。

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