本能寺の変

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用

織田家

なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
本能寺の変
をクリックお願いします。

 

足利義昭黒幕説(光秀幕臣説) 答え合わせ

確かに足利義昭は、かつて信長包囲網を敷いたことがあります。

しかし、信長に追われて毛利氏の下に身を寄せてからはそうした呼びかけを行っていません。

そもそも、この時点で織田軍に対抗しうる存在は

・上杉
・毛利
・北条

あたりの大名でしたが、毛利も上杉も、織田軍に攻められ四苦八苦の状態。

包囲するどころか囲まれかねない状況であり、実際、本能寺の変の翌日6月3日には、上杉方の魚津城が陥落させられておりました。

※島津や伊達・最上は距離がありすぎ

魚津城の戦い
本能寺での出来事を知らずに陥落した魚津城の戦い~上杉武将達の哀しき切腹

続きを見る

こうした諸勢力と連携を取ったってどうにもならない可能性が高いですし、そもそも光秀と上杉・毛利・北条に繋がりはなく、それこそ土壇場で裏切られる可能性だって低くありません。

義昭が毛利を利用するのであれば、豊臣秀吉と和睦を結ぶこともなかったでしょう。

ご存知のとおり、秀吉は本能寺の変を知るや、毛利との和睦を結んで中国大返しを敢行し、山崎の戦いで光秀を討っております。

毛利の下に身を寄せ、そして毛利輝元を副将軍にするという話が事前に打ち合わせているのであれば、わざわざ光秀を不利にする馬鹿な外交策があるでしょうか。

やはり義昭黒幕説にはムリがある。

なお、次の秀吉黒幕説は、さすがにもっと無理があるのですが、フィクションになると抜群に面白い。

こちらを見て参りましょう。

 

お好きな項目に飛べる目次


秀吉黒幕説

『古舘トーキングヒストリー~戦国最大のミステリー 本能寺の変、完全実況~』で研究者・磯田道史さんも「証拠はないが」とした上で【秀吉黒幕説】に触れておりました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年

続きを見る

光秀は秀吉の援軍として中国へ向かう予定だったので、両者の間でやりとりはあった。

そのパイプで光秀が事前に秀吉に知らせることは可能という趣旨です。

秀吉黒幕説 答え合わせ

あくまで可能であって何ら裏付けはありません。

そもそも確たる裏付けがあれば、磯田先生も提示されていたでしょう。

実際に磯田先生は「証明は今後も不可能」だとされています。

なぜなら仮に秀吉が黒幕だったとしても、その後、天下人になっていますから証拠はすべて消しているはずです。秀吉なら、関わった全員を殺すぐらいのことは平気でやるでしょう。

ただし、事件の背景に豊臣秀吉が絡んでいるってのはフィクションでは最高に面白いですよね。

最近の小説では

『信長の棺』(→amazon

『秀吉の枷』(→amazon

明智左馬助の恋』(→amazon

あたりがこれに近い説ですね。

明智左馬助(明智秀満)
光秀の娘を娶り城代を任された明智左馬助(秀満)最期は光秀の妻子を殺して自害?

続きを見る

マンガでは『へうげもの』(→amazon)でしょう。

読んでいると面白すぎて、同時に秀吉が恐すぎて震えてしまいます。

ブラック秀吉って、やっぱり迫力あるんですよね。

だからこそ黒幕説に取り上げられるのだと思います。

 


四国動乱説

かつて織田信長は、長宗我部元親に対し「四国は好きなだけ領地にしていいよ、取れたらね」と認めました(1575年)。

そのとき取次役を担っていたのが光秀。

当初は何ら問題なかったのですが、元親が破竹の勢いで四国各勢力を制圧していく中で、次第に状況が変わっていきます。

元親の勢力を邪魔くさく感じた信長が、元親に領地の返還命令をくだしたのです。

「土佐と阿波南部の領有は認めるけど、伊予と讃岐は返せや!」

「ああん? 自分で取った土地を返す必要なんてないやろがい!」

当然ながら信長に反発する元親。

間に挟まれた光秀は、元親を説得すべく石谷頼辰(いしがいよりとき)を派遣しました。

石谷頼辰は、光秀の腹心・斎藤利三の兄です。

斎藤利三
斎藤利三~光秀の右腕にして春日局の父親だった明智家重臣~最期は秀吉に斬首され

続きを見る

しかも長宗我部元親の義兄にもあたり(義理の妹が元親の正妻だった)、何かと繋がりがあります。

それが結局、説得できず、光秀はメンツを潰されてしまったのでした。

以来、光秀は信長にないがしろにされつつあり、苦境に陥ってしまったために謀反を起こすというものです。

長宗我部元親
長宗我部元親が土佐一国から戦乱の四国を統一!最期は失意に終わった61年の生涯

続きを見る


四国動乱説 答え合わせ

四国説を裏付けるものとして、2014年6月と2015年5月、歴史的意義が深い新史料が提示されました。

林原美術館と岡山県立博物館が発表した書状です。

本能寺の変直前に明智家と長宗我部家がヤリトリしていた内容に加えて、信長と旧知の間柄だった近衛前久まで絡むというお熱いもので「本能寺の変・四国説」を強めるかと思ったら、否定する一面を備えておりました。

「領地を減らせ」という信長の無理難題を受け入れ、長宗我部が織田の軍門に下る意向を示していたのです。

要は、元親が折れたんですね。

すると新たな疑問が湧いてきます。

このころ織田信長は、織田信孝丹羽長秀に命じて「四国方面軍」を編成させておりました。

織田信孝
信長の三男・織田信孝が迎えた壮絶な最期がヤバい~秀吉に敗れ怨念の十字腹を

続きを見る

丹羽長秀
丹羽長秀は安土城も普請した織田家の重臣「米五郎左」と呼ばれた生涯51年

続きを見る

ほらやっぱり攻めようとしてたんじゃん。

元親との交渉がうまくいったならば、そんな必要ないでしょ。

という疑問もさらに湧いてきますが、信孝と長秀が【使者】であると考えればナゾが氷解するという指摘もあります。

混乱するばかりですね。

だからこそ、この四国動乱説をプッシュされる方もおられるのでしょう。

 


光秀高齢説

本能寺の変当時、55歳前後と考えられていた光秀が実は67歳だった。

「老い先短きゆえに実力行使にでたのではないか?」という見方です。

佐久間信盛林秀貞のように、譜代の重臣といえども、働きが満足でないと躊躇なく解雇してきた信長。

それを間近で見てきた光秀が将来に不安を感じてクーデターを起こしたというものです。

確かに明智軍団も所帯が大きくなっており、突如、お役を奪われたら、残された一族と家臣が悲惨な末路になりかねません。

では、この説の真偽はどうか?

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-織田家
-

×