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戦国大名はどうやって戦国大名になった? 18武家の成り立ちを見てみよう!

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大内氏

「大内」という名字を名乗った一族はたくさんいます。

そのうち戦国大名の大内氏(周防大内氏)を指すことが多いので、ここでもそこにスポットを当てましょう。

家紋「大内菱」が幾何学模様と花の図案化でカッコいいんですよね。

彼等の出自というのは、百済の王族・琳聖太子が周防国に逃れ、聖徳太子に謁見した後、大内県と多々良の姓を与えられた……なんてありますが、それはさすがに……^^;

もう少し現実的な説としては、製鉄技術を半島から持ってきた渡来人の末裔ではないか、という見方があります。

12世紀半ばから周防に根付いて以来、ずっと鎌倉幕府御家人であり、六波羅評定衆も務めたことがあるので、由緒正しい一族であったことは間違いありません。

九代・大内弘世の代、南北朝時代初期になると中国地方西部に勢力を広げ、山口を本拠としました。

しかし十代・大内義弘は力を持ちすぎて三代将軍・足利義満に睨まれ、応永の乱で断絶寸前まで追い込まれてしまいます

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いろいろあった後、義弘の弟・盛見が許されて家を再興できました。

そこからは怒涛で短い栄光期を迎えます。

戦国時代に当主となった十五代・大内義興が幕府の管領代になり、その子で十六代・大内義隆が、周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前七ヵ国の守護を兼ね、西国随一の勢力を誇るようになるのです。

しかし!

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天文二十年(1551年)に家臣の陶晴賢が(痴情のもつれが極まって)義隆と一族を攻め滅ぼしてしまったことから、一気に凋落。

晴賢が、義隆の甥・大内義長を担ぎ上げたものの、足場固めに成功しつつあった毛利元就との【厳島の戦い】で敗れ、その後間もなく大内氏自体が滅んでしまいます。

大内氏はその出自のためか、歴代の朝鮮政権とも積極的に付き合い、貿易で巨額の富を築いていたことも特徴の一つです。

それを元手に学問・芸術を奨励し、山口の町は小京都とも呼べる姿になっていました。

また、キリスト教の宣教師や、京から落ち延びてきた公家を積極的に保護しています。

日本で最初に「メガネ」をかけたのが大内義隆であるというのも、戦国ファンには割と有名な話ですね。

 

大友氏

初代・大友能直(よしなお)は相模出身。

父親が郷司(在地の官僚)であり、能直は後に中原親能(藤原親能)の養子となったことから始まります。能直から見た親能は、母の姉婿(義理の伯父)にあたります。

親能は源頼朝の重臣で、弟が毛利氏の先祖である大江広元なので、大友氏と毛利氏はいろんな意味で因縁があるといえます。

それ以前の血統については、二つの説があります。

一つは藤原秀郷の子孫だというもので、もう一つは頼朝の落胤という説です。

どちらかというと前者のほうが有力です。って、そりゃそうだ。

また、能直の母の実家・波多野氏は相模の有力な豪族であり、源頼朝の父・源義朝が波多野氏の娘との間に源朝長(※)をもうけていました。

血筋についてはまだ定説がないものの、立場としては重要な位置にいたといえます。

頼朝は九州の守護として、大友・島津・少弐といった当時の新興勢力をあてました。

おそらくは頼朝から見て、遠隔地を任せるに値すると判断した人を選んだのでしょう。九州は朝廷のお役所である大宰府がありますから、京の事情もある程度わかるような人、という条件もあったのかもしれません。

それでも初代・能直と二代・親秀は九州に定着しておらず、三代・大友頼泰の代から豊後に下向しました。

別に仕事をサボっていたわけではありません。

当時の大友氏は頼朝との信頼関係が基盤だったため、うかつに鎌倉を離れると地位や名目をまるっと失うおそれがあったからだと思われます。

大友能直/wikipediaより引用

頼泰の代には元寇の危機にさらされ、名実ともに下向の理由ができました。

そこで頼泰は元寇で戦功を挙げ、大友氏の武名を高めて基盤を作り上げます。

以降、大友氏とその分家は豊後に定住し、領内の豪族に子供を養子入りさせるなどして、勢力を強めていきました。

大友氏の分家に始まる家としては、入田氏・野津氏・松野氏・立花氏などがあります。

鎌倉幕府の祖・頼朝の引き立てで九州の名門となった大友氏ですが、後醍醐天皇による【元弘の乱】においては最初から倒幕側。

六代・大友貞宗が、少弐貞経らとともに鎮西探題の北条英時を滅ぼしました。

建武の新政の後は、足利尊氏が近畿での戦いに敗れ、九州に落ち延びてきたときも、比較的早い段階で尊氏方についています。

しかし、その後九州では南朝方が優勢になったため、難しい決断を迫られました。

そこで九代当主・大友氏継は一計を案じます。

自分は南朝方につき、家督を弟の大友親世に譲って十代当主とし、そのまま北朝方につかせたのです。

これで大友氏自体は生き残れます。

ただし、血筋は氏継系と親世系に分裂することにもなってしまいました。いつの時代も難しいものですが、中世の殺し合い激しいときにはなおさら困難という感じがしますね。

室町時代が少しだけ安定してくると、幕府から派遣されてきた九州探題とは、一定の距離を置いていたようです。

そして応安三年(1370年)。

九州における南朝勢力・征西府を討伐するためとして、足利幕府から今川貞世(今川了俊)が派遣されてきていました。

親世は貞世に接近して所領を拡大。

九州から南朝方が駆逐されると、今度は大内義弘とタッグを組んで貞世に関する讒言で失脚させます。

まさに使い捨て……ひでぇ話ですが、悲しいけどこれ戦争なのよね……。

その後、大内氏とも少弐氏とも戦国時代を通して戦ったり、氏継系と親世系が交互に当主になったり、その流れで滅亡寸前まで行ったりして時代が進みます。

そして二十一代当主が、キリシタン大名として有名な大友義鎮です。

出家後の大友宗麟ほうが有名ですかね。

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立花道雪など、特に優秀な家臣が多かった時代ですが、キリスト教を重んじすぎたのがいけなかった。

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家臣の大多数である八幡神や、仏教への信仰が厚い層との軋轢を生んでしまいます。

さらには、早くに息子・大友義統(のちに吉統)に家督を譲って二十二代当主にしたにもかかわらず、二元政治状態に。

つまり、宗麟は

「宗教」
「世代交代」

という二つの面で、家中分裂のキッカケを作ってしまったのです。

そんな状態ですから、龍造寺氏や島津氏との合戦でも大敗してしまい、国人たちは一斉に反旗を翻すようになりました(ノ∀`)アチャー

なんとか挽回しようとしたものの、自力では抗いきれず、宗麟は関白となった豊臣秀吉に臣従して生き残る道を選びます。

おかげで豊後一国は安堵されました。

しかし、中心の一人・立花宗茂が秀吉の目に留まって独立大名となったことで、力を削がれています。

また、宗麟の死後、大友義統は【文禄の役】で敵前逃亡をやらかし、文禄二年(1593年)に秀吉から改易を申し付けられてしまいました。

渡航前に家督を嫡男・大友義乗に譲っていたため、ギリギリ家は残りましたが……。

これにより、後の【関が原の戦い】では吉統が西軍総大将・毛利輝元の支援で挙兵、豊後に侵攻しています。

東軍の細川忠興などに与えられていた旧大友領回復を図ったのです。

しかし、ここで立ちはだかったのが黒田官兵衛こと黒田孝高(如水)。

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官兵衛にコテンパにされ、大名としての再興の芽は潰えてしまいました。

幸い、義乗が若いときから人質として江戸におり、秀忠の近侍をしていたため、そのまま旗本として幕府に直接仕えるようになります。

その後は一時断絶しかけましたが、義乗の異母弟・松野正照が熊本藩士になっていたため、その子・義孝に家門再興が許可。

高家(儀式や典礼を担当する家)として存続しています。

※源朝長……頼朝のすぐ上の異母兄。松田冠者とも。平治の乱で敗れた後、関東へ落ち延びる途中で傷が悪化して死亡した

 

島津氏

初代の島津忠久は、藤原氏系の公家である近衛家の下家司・惟宗氏(これむねうじ)の出身とされています。

京で頼朝の知遇を得てから、治承・寿永の乱において戦功を挙げ、その後、薩摩・大隅・日向の南九州三国の守護兼惣地頭となりました。

忠久の母・丹後内侍(たんごのないし)が比企氏の出身だったため、建仁三年(1203年)の【比企氏の乱】に連座して三カ国の守護職を失っています。

後に薩摩守護だけ許されましたが、大隅・日向回復は島津氏の悲願となりました。

また、承久三年(1221年)には信濃国太田荘地頭職、および越前国守護職に任じられています。

これがキッカケで、島津氏の分家筋に信濃や越前の系統ができます。

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二代・忠時(忠義)は、伊賀や讃岐の地頭職を受け、鎌倉に常住する御家人でした。

九州から出ていたんですね。

三代・久経は、元寇に備えるため、幕府の命令によって九州に行ってから、代々、九州に住むようになります。この辺は大友氏の流れと似てますね。

そして五代・貞久になると、足利尊氏と後醍醐天皇の要請で少弐氏・大友氏とともに挙兵。

鎮西探題・北条英時を討ち取りました。

その恩賞として大隅と日向の守護職に復帰しましたが、後者についてはのちに別の家に取って代わられております。

南北朝時代には将軍方(北朝方)の一員として戦いました。

貞久は、嫡男・宗久を早くに失っていたため、三男・師久(総州家の祖)に薩摩国守護職を、四男・氏久(奥州家の祖)に大隅国守護職を譲って存続を図りました。

全く違う地域の名前がついているのは、師久が上総介、氏久が陸奥守に任じられていたからです。官位あるあるですね。

南北朝時代を乗り切った後、総州家と奥州家は一時期不和になりましたが、比較的早いうちに(少なくとも表向きは)解決できたため、尾を引かずに済みました。

学問を好んだ十一代・島津忠昌の頃、桜島の大噴火などによって領内が困窮。

内乱が起きた末に悩み抜いて自害してしまっています。勇猛なイメージのある島津氏では珍しく、ナイーブな人だったようです。

忠昌の長子・島津忠治が十二代当主となりますが、内乱を押さえきれず、その弟の十三代島津忠隆や、十四代・島津勝久も同様で、島津本家は弱体化の一途を辿ってしまいます。

こうなると一気に滅亡までか!

否、そこは後に「暗君なし」と呼ばれる島津家です。

島津氏の分家だった伊作家の忠良が、ここで頭角を表します。

「日新斎」の名で有名な人ですね。同じく分家である薩州家との闘いの結果、忠良とその息子・島津貴久が勝ち、同家を立て直します。

貴久は戦国時代で有名な「島津四兄弟」の父です。

一応、四兄弟とは

になります。

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次は上杉氏を見てみましょう。

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