寛永十二年(1635年)12月18日、薩摩武士・中馬重方(ちゅうまんしげかた)が亡くなりました。
おそらく多くの方が『誰だ?』と思うかもしれませんが、
【島津の退き口】
で一世一代の大手柄を挙げた人――というと、俄然、興味が湧いてくるのではないでしょうか。
一体、中馬はどんな活躍をしたのか?
歴史に名高い島津義弘の【島津の退き口】と共に見て参りましょう。
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島津の退き口は鳥居の拒否から始まった
島津の退き口とは一体何なのか?
一行でまとめると
【関ヶ原の戦い】で西軍に付いた島津義弘が、敗戦がほぼ確定した後、鹿児島まで逃げ帰った
となりますが「戦場から逃げた」というイメージとは真逆であります。
この義弘、敗戦を悟ると、敵に背を向けて撤退するどころか、東軍のド真ん中へ突進!
しかも、あの井伊の赤鬼こと井伊直政や本多忠勝らを相手にしながら敵陣を突破。
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徳川家・精強軍団の追っ手を振り切り、無理やり退路を確保、そして逃げ切ったことから伝説的な撤退戦として今日まで語り継がれてきました。
井伊直政は、このときの鉄砲傷が原因で亡くなったとも推測されているほどです。
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てなわけで、この島津の退き口を振り返るため、関ヶ原の戦い前まで時間を戻しましょう。
伏見城の鳥居元忠に門前払い
もともと島津家は中央から遠いこともあり、三成vs家康の戦いには積極的に関与するつもりはありませんでした。
しかし、たまたま島津義弘が中央に来ていたときに二人がドンパチを始める気配を見せたのです。
家康は義弘の実力を知っていますから、これを見逃す手はありません。
「伏見城にウチの部下がいるので、そこへ援軍に入ってもらえんかね」と書き送り、義弘も「たぶん家康が勝つだろうし、いいだろう」と考えてその通り伏見城へ向かいます。
しかし、そこで大きな誤解が生じます。
家康の部下・鳥居元忠に連絡が届いておらず「殿からそんなこと言われてないんで城には入れません!」と入城を拒否されてしまったのです。
義弘は、石田三成からの誘いもあって、不本意ながら西軍につかざるを得なくなってしまいました。
ちなみにその後、西軍に攻められた元忠は討ち死にしてしまうんですが(伏見城の戦い)、もし義弘を城に入れていたらどうなってたでしょうねえ。
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「島津の伏見城脱出」とかでしたら、それはそれで胸アツですね。
ともかく、これにて義弘の西軍参戦はなし崩し的に決まってしまいます。
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