金融業で裕福だった池田家は装備も充実しており信長にも抵抗
信長は摂津の西端までわずか数日で支配下に治めてしまいました。
京都を手中にしてからの足利将軍家の威光は、信長も義昭も予想外の成果だったでしょう。結局、最後まで抵抗を見せたのは、摂津・池田城の池田勝正だけでした。
池田城は現在の伊丹空港から見て北にある「五月山」の麓にありました。摂津池田家は金融業で成功して裕福だったようで、この時代では最も装備が整った軍団を持っていたことがルイス・フロイスの記録に残っています。
というわけで池田勝正には自信があったのでしょう。織田方に対して激しく抵抗します。
しかし、後詰が期待できない状態では勝ち目などゼロ。結局池田勝正は、激しく抵抗したことは水に流され、逆にその実力と集金力を買われ、信長に許されて池田城も安堵されます。
それと同時に池田勝正は、信長・義昭政権で摂津守護の一人にも任命され、金ヶ崎の退却戦などでも活躍します。他にも摂津守護には和田惟政、伊丹親興が任命されており「摂津三守護」と呼ばれました。
しかし後に信長と義昭が決裂したとき、池田家家臣だったにも関わらず主君の家を乗っ取った荒木村重やキリシタンで有名な高山友照(右近)、中川清秀などの信長派の武将に摂津を奪われてしまいます。
三好勢力を一掃して畿内の制圧が一段落した信長と義昭は、陣を置く芥川山城で、各地から集まってきた支持者やお近づきになりたい国人や僧侶、商人などの歓待を受けます。
大和国で孤立していて九死に一生を得た松永久秀もやって来て、茶器の大名物「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上、大和一国を安堵されます。
信長は芥川山城で一通り畿内の有力者たちとの面会を終えた後、いよいよ足利義昭を奉じて上洛も果たしました。
と、ここまで信長と義昭の摂津の戦いを見てきましたが、一つ疑問が湧いてきません?
なぜ信長と義昭は、洛中の将軍御所にさっさと入らないのか。
いつまでも清水寺や芥川山城に滞在していたのか。
その答えを明らかにする前に、京の都の仕組みについて詳しく見ておきましょう。
洛中、浮世離れし過ぎて城がない問題
京の都は洛中と洛外に分かれています。
天皇の御所や足利将軍家の御殿「室町殿」、管領細川家の「細川殿」などのVIPの館があるのが京の中心地「洛中」です(ちなみに「殿」とは「大きくて立派な建物」という建物を指す言葉)。
この洛中を取り巻く外縁で、寺院や京の町が集まるところが洛外です。では、どこまでが洛中かと言われるとこの時代に分かりやすい目印はありません。
後年、秀吉が洛中を囲った「御土居(おどい・京都を囲む土塁)」は洛中と洛外を明確に区別しましたが、室町時代までは、どこまで課税したかで(棟別銭)、洛中と洛外に分けていたといわれています。
室町時代の成立以後、洛中ではどんなに戦乱に巻き込まれても御殿が城郭化されることはありませんでした。
足利将軍家の居館の「室町殿」は、上記のようにまるで高貴な公家の館です。
上記のように城郭の要素は一つもありません。
一応、堀と塀はありますが、こんなものでは大軍から守れません。戦乱が起きると臨時の櫓などが設置されるケースはあったそうですが、応仁の乱を経ても「室町殿」を始め、武士の館もほぼ非武装という状態が続いていたのです。
なぜ日本一のセレブで超VIPの足利将軍家が丸裸の館にいたのか。
その理由は、『そもそも城とは何ぞや?』ということを考えると分かります。
城の定義は「要害を構えて侵されない」ことです。
そして城を構える行動を起こすということは、自分の安全を危うくする者の存在を認知していることになります。わかりやすく言うと、天皇家や足利将軍家など、国家の中心に君臨する者には、この「自らが攻撃を受ける」という思想がそもそもないのです。
自分を攻撃する者の存在を認めることは、反対者の存在を受け入れ、自らの正統性を否定することになります。よって将軍家が「城を構えて」しまうと、世の中に自分への反対者の存在を認め、正統性を自ら否定する行為になってしまうのです。
いやぁ、面倒くさい思考ですよね。私のような下々の人間にはたいへんわかりにくいですが、これが応仁の乱を経ても洛中に城郭が築かれなかった理由です。
義昭がなかなか洛中に入らなかった理由は、この洛中の防衛機能が伝統的に弱い、というか防衛の概念が洛中にはそもそも存在しなかったので、摂津方面も含めて広範囲に安全が確保されるまでは危なくて洛中に入れなかったからです。
洛外、マッドマックスな世界が「城」を育てる
では「洛外」はどうだったのか?
これが洛中とは真逆で、マッドマックスな無法地帯です。
洛外には寺院や町が集まっており、各寺院は、貴族や武家から奉納された各種のお宝や土地代から上がる莫大な銭(銭と書くと一気にいやらしくなりますね)を抱えています。また、洛中や寺院に向けての商業地もありました。
しかし応仁の乱以後、荒れに荒れて、幕府が治安維持を放ったらかしにした結果、盗賊や徳政一揆がはびこり、寺院や町といえども自衛のために武士を雇ったり、自前の僧兵を組織して、自ら安全を維持せねばならなくなったのです。その結果が、寺院や町の城郭化です。
修学旅行で定番の観光地、清水寺や東寺なども、長年に渡るマッドマックスな世界にさらされた結果、寺の敷地も「要害を構えて侵されない」造りに変化しておりました。
洛外の寺院の要塞化の過程で生まれた代表的なものに「構(かまえ)」と「釘貫門(くぎぬきもん)」があります。
「構(かまえ)」は後年、小田原城の巨大な「惣構(そうがまえ)」などで知られますが、寺院やそれを取り巻く町ごと堀と塀で囲んでしまうというものです。
大坂、石山に移る前の本願寺の拠点「山科本願寺」はこの巨大な構「惣構」で有名です。構を設置することで、自らの防衛圏を明確に定め、これを越える者は侵入者として攻撃を加えるという境界になります。
しかし四方を常に囲んでいる状態では生活できません。通常は人の往来を可能にするために門を設置します。これが「釘貫門」です。
釘貫門とは漢字の「廿」の形をした門です。
両脇に二本の柱を立てて、横穴(釘貫)に横木を一本通し、両開きの門扉を設置します。後に横木の上に屋根が付いて「冠木門」や、現代でも寺院や城でよく見る「薬医門」に発展していきます。これはもともと洛外の野盗対策だったんですね。
写真は江戸城外郭に架かる「昌平橋」で、左方に見えるのが釘貫門です。
内側に開く門扉が付いているのも見えますね。明治初期の写真ですが、この時代でも普通に活用されていた汎用性の高い門です。
また、当時の洛外の寺院の絵図を見ていくと門の先には番所が備えられていたり、塀には弓矢を打つための「狭間(さま)」が描かれています。
さらに寺院や建物の隅には二階建ての櫓が設置され、弓矢を持って守備につく人物も描かれています。
信長や秀吉の時代に近世城郭が広まり、築城の技術革新が進んだとされますが、洛外には膨大な築城技術が寺院に蓄積されていたのです。この技術が宗派のネットワークを通して全国の寺院に広まっていきました。一向宗では北陸の技術が山科本願寺に逆輸入されるなど、技術の交流で寺院の築城技術はますます進歩していきました。
京都では城郭の発展は武家ではなく寺社勢力が担っていたというのも面白いですね。