二条城は超画期的だった!? 六角親子を倒し、浅井長政に裏切られるまで

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伊勢平定からバ◯息子の活躍までをダイジェストで!

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150921-12

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信長はこの後、数年前からの懸案事項だった伊勢の北畠家の制圧に全力を注ぎます。

伊勢侵攻については、本題から離れるのでかなり省略します。

松阪まで進んだ後は、南近江の戦い同様、機動力を生かして敵本陣に全軍で突撃。伊勢の領主・北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)父子の詰めの城・「大河内城(おかわちじょう)」攻略にも全軍を投入しますが、さすがの名城でなかなか落ちません。

しかし機動力を発揮して短時間で攻め上がったために大河内城では籠城戦に備えることが出来ず、信長も隙間なく包囲したので、北畠側に餓死者が出ててきました。最終的に信長二男の茶筅(ちゃせん)を北畠具教の娘の婿に迎え、後に家督を譲ることを条件に和睦しました。いわゆるお家の乗っ取りですね。

茶筅は後年、織田信雄として有名ですが、実は織田信雄を名乗ったのは本能寺の変後、清須会議あたりからです。それまでは成人して北畠具豊(ともとよ)、家督相続後は北畠信意(のぶおき)を名乗っています。

信意は北畠具教、具房父子とその側近たちを虐殺したり、勝手に伊賀攻めを始めて手痛い反撃を食らったり、いろいろヤラカシています。小牧長久手の戦いでの自由な振る舞いも有名ですね。何より清須会議で、出席者の誰からも織田家の後継者に推されなかったという、もうこの事実だけで実力を推して知るべしといった人物です。

話を戻しましょう。伊勢平定後、信長は伊勢国内の諸城を壊し、関所も撤廃します。そしてその後、滝川一益と織田信包を押さえに置いて、自らは千草峠越えで上洛。京に数日滞在し、義昭に伊勢平定の報告をして岐阜に帰国しました。

 

浅井家、もう付いていけないってよ

明けて永禄13年(1570年)3月に信長は上洛します。この年、4月には年号が「元亀」に変更。信長が頑なに反対していましたが、義昭が強行しました。この頃から自信を取り戻した義昭が、よく言えば「自立」、悪く言えば勝手に行動を起こし始めます。

それはさておき、この時、信長は諸国の大名に声を掛け、上洛を促します。飛騨の姉小路中納言(三木自綱)、伊勢の北畠具教、三河の徳川家康、河内の畠山昭高と三好義継、大和の松永久秀、そのほか、山名、一色、京極など、多数集まりました。

しかしこれは踏み絵のようなもので、この上洛に応じなかった朝倉家に対して信長は「俺様を無視するのはこれでもう二回目だな。成敗してやる」と次の標的に定めます。

信長は、宮中にも参内して天皇に朝倉追討の許可を得ています。この時の大義名分は若狭の武藤友益征伐です。

武藤友益は若狭の守護武田元明の家臣で、当時の若狭武田家は長年に渡る朝倉家の若狭国への介入の結果、当主の武田元明が越前に拉致されて、完全に朝倉家の従属下に置かれていました。これに反発する若狭の勢力が反朝倉派となり、信長に援軍を求めていたのです。

信長は彼らを若狭衆と呼んで重用しました。朝倉家支配の詰めの甘さが結局、信長を若狭に呼び込む口実を与えてしまったのです。

朝倉家は、若狭を従属させているからには、若狭がピンチになれば後詰めの兵を出さなくてはいけません。

一方、信長は若狭衆の手引きもあって若狭を平らげ、敦賀の要衝・天筒山城(てづつやまじょう)も力攻めで攻略します。次いで天筒山城の尾根伝いに造られた朝倉家の出城「金ヶ崎城(かねがさきじょう)」を攻撃しようとしたときには、既に城主の朝倉景恒は逃げていました。

この後、信長はいつもの戦略で敵の本陣「越前の一乗谷」まで一気に攻め上がって制圧する予定でした。

が、ここで浅井長政が謀反を起こしたという情報が入ります。

信長は当初「うそだろ。あんな小心者が裏切るはずがない」と信じていませんでした。しかし、裏切りは確かだとの情報を得ると全速力で京に撤退することに決めます。

困ったら逃げ!それが戦国の生きる道(富永商太・絵)

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対等の同盟だったハズなのに、いつしか家臣扱いされていて

一体全体、浅井家に何が起こったのでしょうか。

ICHIメーターは「6」で止まっておりましたので、少し遡ってこの裏切りまでの間に起こったことを見ていきましょう。

浅井家は元々、北近江守護の京極家の被官でした。

が、北近江国人衆の裁判などをうまくまとめる利害関係の調整役として台頭、京極家の没落と取って代わるように北近江を代表する大名になったことは前回紹介しました。

そして越前朝倉家と南近江六角家という名門の大国同士の間でバランスを取りながら両国経営を安定化させ、国を豊かにする国家戦略をとっていました。

ところが織田信長の登場により、地域のパワーバランスが崩れ、六角家は滅亡します。幸い織田家とは友好的な関係にあるので、北近江を侵食されることはありませんでしたが、信長は将軍義昭を擁し、南近江を超えて突っ走り、摂津や河内、播磨近辺まで治めてしまいます。信長が「天下布武」の印判を使用したように、天下の政権運営にのめり込んでいきます。

この間、浅井家は信長の戦いに援軍を出したり、二条城や内裏の造営にも力を貸しています。北近江外に流出していく絶え間ない出費にICHIメーターはいつのまにか「7」を示していました。

そもそも同盟を結んだ当時は、婚姻政策に基づく対等な関係だったはずです。それが気がつけば足利将軍家への奉公といいながら実質、織田家の家臣扱いをされているのです。

 

この実質的な信長の従属国状態を受け入れて最大限に利用したのが徳川家康ですが、浅井久政・長政父子およびその家臣団である北近江国人衆たちは受け入れることができませんでした。この扱いで、ICHIメーターは「8」に上がります。

一方の信長も、浅井長政を小心者だと評していたという記録が残っています。

が、おそらく自分が伊勢などの制圧に向かっている間に、羨むほどの強兵と優秀な武将を持ちながら他国(越前や若狭)にも介入せず、北近江から全く動かなかったことを軽く批判していたのでしょう。同時期に、徳川家康が三河と遠江を制して、ついに武田信玄との対決を始めたこととは全く対照的です。

しかし信長がどう思おうが、浅井家の国家戦略に朝倉家と戦う理由は全くありません。ましてや、その従属国である若狭に侵攻する理由も皆無。信長が侵攻しない浅井家を軽くみればみるほど、浅井家のふつふつとたぎる怒りや焦りのはけ口はすべて織田家に向かうのです。

これをコントロールするのは至難のワザでしょう。国人衆の連合組織、一揆の盟主でしかない浅井家にとって、独立心の強い国人衆の不満に同調しないことは「じゃあ頭領の座を降りていただこうか」と迫られ、自らの座を危うくしてしまうのです。

国人衆から訴えられる数々の不満に浅井長政は耐えられなくなります。

「摂津とか京とか興味ねえから!」、「領国を豊かにする方が先だろ!」、「信長?天下布武?知るか!」、「なにっ!?ICHIメーターがまだ8? 9だ!9にしろ!!」

そして・・・。

「えっ? 朝倉さんが信長さんに攻められてる?」

決定的な転機が訪れました。

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