第一次川中島の戦い

長野市八幡原史跡公園にある信玄と謙信の一騎討像

武田・上杉家

第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動く

「人は城、人は石垣……」という言葉の影響からか。

お城イメージの薄い武田信玄

戦国最強とも称される武将が重要施設である城砦(じょうさい)を軽視するワケがなく、以下の記事では、信玄が信濃侵攻へ向け、キッチリとお城マネジメントを手掛けていたと記させていただきました。

信玄と城
信玄の城マネジメント能力が凄い~城はあくまで城 石垣も石垣です

続きを見る

今回はその続き。

天文22年(1553年)7月25日に武田軍が甲府から出陣し、その後、戦国史に名高い【第一次川中島の戦い(1553年)】が始まりましたので、同合戦を城視点から見て参りましょう。

 


第一次川中島の戦い 北信濃を制するぞ!

まずは

・武田信玄
・北信濃
・上杉謙信

の位置から確認しておきましょう。

甲府の躑躅ヶ崎館を出て、善光寺平(川中島の戦い舞台)に来ると、謙信の越後はもう目と鼻の先。

上から下から謙信の春日山城(赤)、北信濃の要衝・善光寺(紫)、信玄の躑躅ヶ崎館(黄)と並んでいます。

紫色の善光寺平周辺で、両軍がぶつかったのが川中島の戦い。

川中島の戦いというと、信玄と謙信が一騎討ちしたというエピソードで有名な【第四次川中島の戦い】がまず脳裏をよぎりましょう。

第四次川中島の戦い
第四次川中島の戦いが信玄vs謙信の一騎打ちなくとも激戦になった理由

続きを見る

回数については諸説あり、本サイトでは一般的に普及している通算5回で進めます。

それにしても、小競り合い含めて5回も対戦するとは……もちろん当人たちも好き好んで戦ったのではなく、理由は切実なもの。

北信濃が非常に重要なエリアだったんですね。

同地域は10万石の収穫があるとされ、第一次川中島の戦いが起きた1553年当時は善光寺という宗教&商業施設もあり、石高の低い甲斐と越後(当時は米どころではなく40万石程度だったとも)から見れば垂涎の土地でした。

そんな北信濃の中心だったのが川中島。

「川中島を制するものは北信濃を制す」と言えるほどの要衝だったのですが、古今東西、こうした場所には必ず城が築かれます。

すべての城は、そこに建てられた意味があるのです。

特に武田信玄は、積極侵攻策で甲斐から北信濃まで進撃してきており、何が何でもここに城を築きたい。

影響を及ぼしたい地域に橋頭堡=城を確保して、その城を境い目の重要防御地点にするのは戦国大名の定石です。

とにかく戦国時代のど真ん中、城の基本は

「要害を作って侵されない」

という、100%軍事目的としての城でした。

後世のように権威とか、見せるための要素は薄かったのです。

そしては、この川中島を取り巻く地域「善光寺平」に多くの城を確保するため、全力で取り掛かりました。

※以下は武田信玄の生涯まとめ記事となります

武田信玄
史実の武田信玄は戦国最強の大名なのか?戦歴や人物像に迫る生涯53年

続きを見る

 


武田め、ついに一線を越えおったな!

同時に上杉謙信の視点から見ておきますと……。

地図をご覧いただいた通り、川中島を含む善光寺平の北にある山々を越えると、そこはもう越後の国。

謙信の本城「春日山城」があります。

つまり上杉謙信にとっての北信濃は、単に収入的な価値だけでなく、本拠地の安全保障上から見ても重要な地域であり、一人でも多くの地元小領主(国人衆)たちを傘下に収めておきたい――。

そんな場所に武田信玄が侵攻してきたのですから、心中穏やかではいられない。

確かにこれまでも武田が信濃に侵入してきたことはあります。

が、村上義清の踏ん張りもあり、北信濃エリアは武田と上杉の【緩衝地帯】として機能していました。

村上義清
信玄に二度も勝った戦国武将・村上義清!謙信を川中島へ呼び寄せる

続きを見る

その義清がついに粉砕されると、緩衝地帯は機能しなくなり、下手をすれば謙信は越後の自領を攻撃されてしまいます。

それだけは避けたい。

軍事の基本は、領国に入られる手前で敵を叩くことです。

ゆえに謙信も、毘沙門天のお告げを聞くまでもなく即出撃するしかありません。

現代も、大国同士が隣接すると大きな戦争に発展してしまうため、緩衝地帯のような国を挟み、とりあえずの平和を維持することがあります。

冷戦時代は西欧諸国とソ連の間に東欧諸国があったり、昨今では緩衝地帯として機能していたウクライナがEUに寄り過ぎてしまった結果、ロシアが一線交えてでも取り込んだり。

古今東西どこでも起こりうる安全保障の考え方であります。

そんな北信濃の緩衝地帯に武田家が侵入してきたら、謙信だって

「ついに一線を越えおったな!」

「いざ、出陣!」

と、ならざるを得ない。

 

両者がぶつかるのは必然でもありました。

上杉謙信
なぜ上杉謙信は軍神と呼ばれるのか武田や北条と戦い続けた49年の生涯

続きを見る

 


川中島の戦いって実は【城取り合戦】なんすよね

川中島の戦い――。

というと、だだっ広い平野で両軍が激突というイメージが非常に強いですよね。

しかし、結論から申しますとそうではありません。

乱暴を承知で言えば、川中島の戦いは【城取り合戦】であり、敵の城(拠点=橋頭堡)を潰し合うものです。

「え? 川中島の城って海津城だけでは?」と思ったりします?

残念ながらそれは誤解です。

もちろん海津城も非常に重要な拠点でありますが、これも川中島に数ある城の一つに過ぎません。

周囲にはまさに要塞と呼べるべき城が乱立していたのです。

以下の地図にサッと目を通してみてください。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141116-2

善光寺平全景。主な城をマークしております。お城だらけです/©2014Google,ZENRIN

詳細は後ほど解説しますので、ここでは軽く「めっちゃあるやん!」程度で認識していただいて問題ありません。

ともかく思った以上にお城が乱立していると思いませんか?

これを念頭に入れるか入れないかで、川中島の戦いの面白さが俄然変わってきます。

以降、「最前線の城とは何か?」という点を意識して見ていきましょう。

※川中島の戦い当時、信玄は武田晴信、謙信は長尾景虎、その後、輝虎とか色々と変わりますが、便宜上、信玄、謙信で話を進めます

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-武田・上杉家
-

×