そんな家系に生まれたら、トンデモナイ生涯が待っていそうですよね?
実際に波乱万丈な結婚生活を迎えた姫がおります。
寛文六年(1666年)2月6日に亡くなる千姫です。
結婚相手は、天下人・秀吉の息子である豊臣秀頼でした。
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12年の夫婦生活が一番幸せだったかも…
ご存知の通り、豊臣秀頼は大坂夏の陣で亡くなります。
それが1615年のことですから、1666年に亡くなった千姫は城を脱け出してから実に半世紀も長生きしていたんですね。
享年69歳で、秀頼と暮らしたのは12年くらい。
長い人生から見れば割と短い夫婦生活でした。
が、もしかしたらその頃が一番幸せだったかもしれません。
というのも、千姫は大坂城を出てから平穏な生活を送れたわけではなかったからです。
事の発端は大坂夏の陣で、千姫の処遇を決めたときのこと。
さすがの狸も豊臣家を討つ決意は固めていたものの、孫娘である千姫まで殺すのは忍びなかったようで、「千姫を助け出した者に千姫をやろう」と、今ならあっちこっちの団体が大クレームをつけてきそうなことを言い出したのが悲劇の幕開けでした。
豊臣方でも「千姫は徳川の血筋だから助かるだろう。わざわざ助かる者まで道連れにするのは良くない」ということで、堀内氏久という武将が千姫を徳川の陣へ送り届ける事になります。
警護の直盛が一目惚れしてもうた
氏久は秀頼の意向に沿って、坂崎直盛という徳川方の武将へ千姫を送り届けました。
そして今度は直盛が徳川秀忠のところまで千姫を護衛したのですが……このとき、直盛が千姫に一目惚れしてしまったのです。
この直盛さん、元は戦国一?のイケメンとして名高い宇喜多秀家の従兄だったので、顔は良かったんじゃないかと思うんですが、いかんせん女心が読めません。
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つい先日までは秀頼と仲睦まじい夫婦だったのに、無理やり引き離された千姫がすぐ他の男性と馴染めるはずはないですよねえ。
しかも秀頼が死ぬのはわかりきっていて、正真正銘の”今生の別れ”だったわけですから。
そんなときに言い寄られてもイエスと言いようがないどころか、千姫にとって直盛はイケメンぶりよりKYっぷりが記憶に残った事でしょう。
ちなみに直盛が宇喜多姓を捨てることになったきっかけは秀家とのケンカでしたので、このときたまたまKYだったんじゃなくて、生来DQNっぽい人だったようです。決して無能とかバカ殿ではないんですが、ねちっこい性格だったらしきエピソードがいくつか伝わっています。
家康、よりによって直盛に再婚相手を打診する
大坂夏の陣が片付いた後、千姫の再婚を決める事になりました。
この時代、一度離婚したからといって武家のお姫様がそのまま実家にいるケースはほとんどありません。
中には伊達政宗の長女・五郎八姫のように「私は(松平)忠輝様の妻ですから、再婚なんてしません!」と生涯言い続けたツワモノもいるにはいましたが、これは本当にレア中のレア。
政宗が忠輝に対して後ろめたさがあったのかな?とかいろいろ複雑な事情があってのことです。
千姫は将軍の娘であるが故に、仲の良い弟・家光たちと暮らすことは許されません。
そこで徳川家康は「千姫に良い婿を探してくれんか」とよりによって直盛に依頼してしまったのです。
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こうなったら奪い去ってやる!
無事送ってきたこと自体は確かに功績といえなくもないですが、さすがの家康も死ぬ直前で人を見る目が衰えていたんでしょうか。
直盛もここで再び千姫を口説こうとはせず、命令通りに適切な再嫁先を探します。
武家に嫁ぐとまた何があるかわからない……という配慮があったのか、それともそういう命令だったのかはわかりませんが、ある公家との縁談がまとまり、後は縁組の儀式をするだけというところまで話が進みました。
たぶん千姫は江戸にいたでしょうし、嫁入り支+と旅の支度にかなり手間がかかっていたでしょう。
しかしここで、突然「千は本多忠刻(ただとき・忠勝の孫)に嫁がせることにしたから、あの話ナシで」という知らせが届きました。
直盛に手落ちがあったわけでもないのに、本当にいきなりです。
そしてわけがわからない上にメンツを潰された直盛は、とんでもない計画を立て始めた……とされています。
それは「本多家へ向かう千姫の行列を襲って、無理やり姫を奪おうとする」という誘拐計画でした。
計画は事前に漏れ、家臣に寝込みを襲われて
元は一目惚れした相手です。
やっと諦めて縁談を進めていたのにいきなりポシャられては、直盛が破滅的な行動に出ても、まぁ、少しは理解できる気はします。
現代で例えると「初恋の人に既に恋人がいたので諦めたが、数年後会ったら結婚したのにちっとも幸せそうじゃなかったので奪いたくなった」というような昼メロでしょうか。ちょっと無理がありますね。
しかし……。
結局この一件は未遂で終わります。
事前に計画を知った家臣が、直盛の寝込みを襲って首をとり、幕府へ差し出すという後味の悪い結末になったのです。
千姫がこの話を知っていたか否か、ハッキリしませんが、何とも後味の悪い話ですね。
ちなみに発端となった縁談破棄は、やっぱり家康のせいでした。
かつて自害させた長男・松平信康の娘(家康からすれば千姫と同じく孫娘)熊姫が、松平忠刻のお母さんだったのです。
父の最期を知っていたが故に、将軍の血縁というだけではお家の安泰が図れないと思ったのでしょうか。
熊姫が「千姫を是非とも忠刻にくださいませ」と狸爺に頼み込んだことは想像に難くありません。
そして千姫の落ち着く先は京都から伊勢桑名藩(現・三重県桑名市)へと変わり、輿入れしていったのでした。
またも愛する夫を亡くして…アラフォーで出家
千姫本人は誰とでもうまくやれる人だったようで、忠刻との間にはすぐ一男一女に恵まれました。
しかしそれもつかの間、長男・夫・姑・母親と立て続けの不幸に見舞われ、また江戸へ戻ることになります。
このとき千姫はまだ30歳程度でしたが、江戸に戻るなり出家して天樹院と名を改めました。
『もう嫁ぐのはたくさんだ』と思っていたのかもしれません。
その後は嫁いでいった娘に子供が生まれたり、弟の子供を世話したりと比較的穏やかに過ごしたようです。
でも、ここまでの経緯を知ると、果たして大阪城から助け出されたことは幸せだったのだろうか……?と思わざるをえません。
関連
長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
千姫/Wikipedia