イラスト・富永商太

徳川家

徳川家康75年の生涯まとめ【年表付】3度の絶体絶命をどう乗り越えた?

誤解を恐れずに言うならば徳川家康は人気がありません。

もちろん全くの嫌われ者というワケではなく、織田信長豊臣秀吉、あるいは真田信繁伊達政宗と比べたらという話であり、ゲームや映像作品などでも、なんとな~くイケてない存在ではないでしょうか?

しかし、これが海外に出ると俄然評価が変わる。
信長や秀吉よりスポットを当てられるのは家康(BBCなどでも制作される)。

実際、その活躍は上記2人に劣るものではなく、戦国ファンが胸を躍らせる合戦にしたって「姉川の戦い」や「金ヶ崎の退き口」あるいは「三方ヶ原の戦い」など、十分に語ることはあるのです。

そこで本稿では、家康の生涯でポイントになるところにスポットを当て、スッキリとその生涯をまとめてみます。

熱い家康――そんな楽しみ方もたまには良いとは思いませんか。

 

父・広忠は17歳 母・於大の方は15歳

東は今川、西は織田、北は武田に挟まれて、常に窮地の中にあった三河の徳川(松平)。

そうした状況の最中、竹千代こと後の徳川家康は、天文11年(1542年)、父・松平広忠と母・於大の方(おだいのかた)の嫡男として岡崎城で生まれました。

岡崎城に伝わる家康の産湯井戸

父の広忠は17歳。
その妻・於大の方は15歳というまだ若い夫婦です。

竹千代の世代には、数多の戦国武将がおり、同じ「三英傑」として数えられる、織田信長(1534年)や豊臣秀吉(1536年or1537年※諸説アリ)と少し下の年代に当たります。

後に直接対決することになる武田信玄(1521年)とは親子ほどの差(武田勝頼の4歳上)でした。

【主な戦国武将の生年】
北条早雲(1432年)
斎藤道三(1494年)
毛利元就(1497年)
北条氏康(1515年)
今川義元(1519年)
・武田信玄(1521年)
・上杉謙信(1530年)
・織田信長(1534年)
島津義弘(1535年)
・豊臣秀吉(1536 or 1537年)
・徳川家康(1542年)
・武田勝頼(1546年)
最上義光(1546年)
本多忠勝(1548年)
立花宗茂(1567年)

そんな綺羅星のごとき戦国武将の中で、なぜに徳川家康が、最終的な天下人となれたのか?

いかなる生涯を過ごしたか?

まずは家康の生まれた一族・松平家の由来についても触れながら、その一生を追ってみましょう。

 

家康が生まれる直前の松平家は苦難にあった

松平一族の由来は、どうもハッキリしません。
その出自は江戸期以来議論されおり、『どうやら古代豪族・賀茂氏の流れでないか?』とされています。

確かに家紋の「三つ葉葵」は葵祭で有名な賀茂神社との関わりがありますが、これでは武家の棟梁として血統の正統性はちょっと弱い。

そこで家康は、新田義貞の配下・得川義季が松平の始祖であった――という伝説を根拠に、のちに「徳川」と名乗り、新田系の清和源氏血統であると自称するようになったのです。

また家康の系統である安祥松平家は、実は嫡流ではありません。
嫡流の家勢が衰えたため、それにとってかわった系統。このあたりの血筋の問題はいろいろとつつかれてきました。

そんな松平党たちはいかにして三河で躍進していったのか?

キッカケとなったのは、松平七代目であり家康にとって祖父にあたる松平清康です。

松平清康/wikipediaより引用

武勇に長けた清康は三河国を切り従えます。

ところが天文4年(1535年)、守山城攻略を目指して織田信秀(信長の父)と対陣中、部下に斬殺されてしまいました。この「守山崩れ」と呼ばれる悲劇以来、松平党は勢いを失い、苦難の日々を歩むことになったのです。

この時、清康の嫡子である広忠は僅か13歳。岡崎城を追われ、流浪の身となります。今川義元の取りなしで岡崎城に戻れたものの、これ以降は今川の意向に逆らえなくなりました。

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のちに家康となる竹千代が生まれたのは、こんな苦難の中でのことでした。

さらに幼い竹千代に苦難が襲いかかります。母・於大の方の兄である水野信元が今川と敵対する織田方についたため、於大が広忠から離縁されてしまったのです。

こうして竹千代は、実母と生き別れることとなったのでした。

 

三河武士団の忍従 すべては竹千代様のために

生母と離別した竹千代に、さらなる困難が待ち受けます。

6歳の折、父・広忠が織田家に対して対抗するため援軍を今川家に申し込んだところ、人質として竹千代を求められたのです。織田への対抗勢力である松平家から人質を取るのならば、生母実家が織田方についた竹千代がふさわしかったのです。

竹千代は駿府へと送られます。が、このとき有名な人質の横取り事件があって織田家に送られ、竹千代はそのまま二年間、尾張に滞在することになったのでした。

そしてこの尾張人質期間中の天文18年(1549年)に、父・広忠が急死してしまうのですから、過酷にも程がある幼少期です。広忠は表向き病死とされていますが、実は家臣による殺害でした。

祖父、父と二代続けて家臣により殺害されてしまった竹千代。
義元は成年の当主が不在となった松平家を支配下に置き、人質交換で竹千代の身柄を駿府に移します。

竹千代は多くの若い家臣たちに囲まれながら、駿府で暮らすことになりました。彼らは青年か主君と同年代にあたり、遊び相手をつとめながら、竹千代を守り続けます。

駿府で竹千代の教育にあたったのは、母方の祖母である源応尼でした。

さらに長じると、名門今川家に仕える名僧たちが薫陶を授けます。その中には今川義元が頼りにした太原雪斎もいました。学問に長けているだけではなく、合戦でも活躍した太原雪斎の教えを受けたことは、竹千代にとって大いにプラスとなったことでしょう。

大大名たる今川家で知性と教養に磨きをかけたことは、竹千代の人格形成によい影響を及ぼしたことでしょう。今川家としても、竹千代が成人したのちには今川家配下の武将として力を尽くして欲しいわけで、粗略な扱いはしなかったと推察できます。

竹千代自身の処遇はさておき、その家臣たちの扱いは過酷なものでした。

岡崎城に入った今川家の城代に従わねばならず、合戦では捨て石のような役目を背負わされるのです。幼主である竹千代が駿府にいる以上、逆らうこともできません。
それでも三河武士団は松平家を見限らず、いつか来る独立の日を信じていました。

彼らの希望は、幼主・竹千代に託されていたのです。

天文22年(1555年)、竹千代は14歳で元服。義元から一字拝領し、次郎三郎元信と名乗ります(ただし、その数年後には元康と改名したようです)。

元信は元服後一時的に岡崎城に戻ります。
しかしそこには今川家の城代がおり、本丸に入ることはできませんでした。

それでも家臣たちは元服した主君の姿を見て感慨もひとしお。元信はこっそりと蔵の中身を見せられます。
そこには大量の兵糧米と軍資金が備蓄されました。

「これは若殿が三河に戻る時のため、その時期に備えて蓄えていたものでございます」

今川家に服従し、決して豊かではない暮らしの中、こつこつと貯められた物資を見て、元信の感動も大きく、そして責任感も全身を駆け巡ったことでしょう。

永禄元年(1558年)、元康は初陣で戦果をあげますが、それに対して恩賞は松平家のごく一部を与えられただけでした。家臣たちは不満を訴え、松平家の領地すべてを与えるように訴えますが、退けられます。

関ヶ原まで、あと四十二年。この二年後、石田三成が生まれるのでした。

 

桶狭間で思わぬチャンス! そして岡崎城へ

念願の松平家独立の好機は、思わぬところでやってきます。

永禄3年(1560年)、今川義元は圧倒的な軍事力を背景に、尾張侵攻を開始(上洛目的という説は現在否定されています)。その配下の将として、元康は先鋒を任されました。

これは露骨な捨て石という見方もできますが、彼の領地が地理的に尾張に近いということも関係しているでしょう。元康の任務は孤立した大高城への食料搬入であり、首尾良くこの任務を果たします。

しかし5月19日、予想だにせぬ大番狂わせが発生します。皆さんご存知の通り、今川義元が織田信長率いる軍勢に討たれてしまったのです。

のちに「桶狭間の戦い」と呼ばれる歴史上の転換点。元康はこの時、大高城で休息中でした。

このままでは敵地尾張に入り込んでいる松平勢は孤立し、囲まれてしまいます。絶体絶命のピンチか――と焦った元康ですが、実のところ織田勢には兵力の余裕がなく、元康に攻撃を仕掛けることは出来ませんでした。

そこで元康は、自領の松平まで無傷で撤退し、いったんは菩提寺の大樹寺に入ります。
このとき、松平家の本拠である岡崎城は、今川の城代が撤退し、空城になっていました。喉から手が出るほど欲しかった念願の岡崎城が目前にある……されど今川に対する義理のためか、しばらく様子見に徹する元康。

意を決して岡崎城に入り、今か今かと織田勢の襲来を待ちました。

岡崎城

が、義元を討ったことで力を使い果たしたのか、結局、織田勢はやって来ません。

かくして思いもよらぬ幸運により、ほぼ無傷で岡崎城を取り戻した――なんて書くと棚ボタラッキーのようではありますが、先に大高城へ危険な食料搬入を果たしていることを忘れてはいけません。

いずれにせよ今川は、当主義元を討たれ、家督を継いだ今川氏真体制では、不安定な状況です。

この間隙を縫って永禄5年(1562年)、元康は今川家から独立を果たし、母方の叔父の仲介で織田家と同盟を結びました。
このとき義元からもらった偏「元」を返上し、家康と名乗るようになります。

スムーズな独立のようにも思いますが、実際はさにあらず。

永禄6年(1563年)には「神君三大危難」の一つである三河一向一揆に遭っており、家康は一揆を鎮圧しつつ三河を統一。ようやく独立大名となったのでした。

二代続けて主君が若くして家臣に殺された三河松平一族。悲運の雲に晴れ間が見え、ようやく明るい兆しが見えてきました。

関ヶ原まで、あと四十年のことです。

 

信長と同盟を結び「家康」に改名

永禄5年(1562年)、前述の通り、元康は尾張の織田信長と同盟を結びました。
この同盟は、信長が本能寺で斃れるまでの二十年間堅持されることになります。

この同盟で西側に安全を確保した元康の狙いは、東の今川です。義元の死以来、国衆の動揺を抑えきれない今川領は、武田・北条によって食い荒らされているような状態でした。

そして永禄6年(1563年)には元康から「家康」へと改名。

「家」の字はどこから来たのかというと、清和源氏の「源義家」ではないかとされています。さらに永禄9年(1566年)には従五位三河守叙任と同時に「徳川」に改姓。松平元康はおなじみの「徳川家康」となったのでした。

さてここで、あの狂歌を思い出したいと思います。

◆織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

これを家康本人がもし読んだとしたら「おいおい、織田が餅をついたというならば、私だって一緒にやっていたじゃあないか」と言いたくなるかもしれません。

織田信長が天下布武を目指していたのは確かです。そしてその道のりには、頼りになる同盟相手として家康がいたのでした。いわば信長が杵で餅をつく合間に、手際よくひっくり返していたのが家康と言えるのではないでしょうか。

二人の関係は共存共栄であり、家康だけではなく信長もこの同盟から利益を得ていたのです。そうでなければ二十年も続かなかったはずです。

例えば永禄11年(1568年)、信長は上洛を果たします。

これも東側を家康が抑え、背後を突かれることはないと思っていなければ難しいことです。この上洛によって信長は将軍・足利義昭を奉じ、他の大名に対して一歩リードするようになるわけです。

イラスト:富永商太

一方、家康は、東の今川を攻略。永禄12年(1569年)には、今川氏真が掛川城を開城して家康に降伏、戦国大名・今川氏はここで滅亡します。

氏真は家康の保護下に入り、特に険悪な仲というわけでもなく、二人は晩年までつきあいが続きます。
氏真の子は旗本として江戸幕府に仕えるほどです。

家康は信長の同盟相手として、永禄13年(1570年)金ヶ崎の戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参戦、存在感を見せます。

家康というと晩年の狸親父のイメージが強いのですが、壮年期は武家の棟梁らしい精悍な姿を見せています。姉川の戦いではどうしても一番手を切ると譲らず、結局信長は陣立てを変更した、と伝わります。そして……。
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