徳川家康

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

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清洲同盟からの改名「家康」へ

永禄5年(1562年)、前述の通り、元康は尾張の織田信長と同盟を結びました。

この同盟は、信長が本能寺で斃れるまでの二十年間堅持されることになります。

この同盟で西側に安全を確保した元康の狙いは、東の今川です。義元の死以来、国衆の動揺を抑えきれない今川領は、武田・北条によって食い荒らされているような状態でした。

そして永禄6年(1563年)には元康から「家康」へと改名。

「家」の字はどこから来たのかというと、清和源氏の「源義家」ではないかとされています。

さらに永禄9年(1566年)には従五位三河守叙任と同時に「徳川」に改姓。松平元康はおなじみの「徳川家康」となったのでした。

さてここで、あの狂歌を思い出したいと思います。

◆織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

これを家康本人がもし読んだとしたら「おいおい、織田が餅をついたというならば、私だって一緒にやっていたじゃあないか」と言いたくなるかもしれません。

織田信長が天下布武を目指していたのは確かです。そしてその道のりには、頼りになる同盟相手として家康がいたのでした。

いわば信長が杵で餅をつく合間に、手際よくひっくり返していたのが家康と言えるのではないでしょうか。

二人の関係は共存共栄であり、家康だけではなく信長もこの同盟から利益を得ていたのです。そうでなければ二十年も続かなかったはずです。

例えば永禄11年(1568年)、信長は上洛を果たします。

これも東側を家康が抑え、背後を突かれることはないと思っていなければ難しいことです。この上洛によって信長は将軍・足利義昭を奉じ、他の大名に対して一歩リードするようになるわけです。

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一方、家康は、東の今川を攻略。永禄12年(1569年)には、今川氏真が掛川城を開城して家康に降伏、戦国大名・今川氏はここで滅亡します。

氏真は家康の保護下に入り、特に険悪な仲というわけでもなく、二人は晩年までつきあいが続きます。氏真の子は旗本として江戸幕府に仕えるほどです。

家康は信長の同盟相手として、永禄13年(1570年)金ヶ崎の戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参戦、存在感を見せます。

家康というと晩年の狸親父のイメージが強いのですが、壮年期は武家の棟梁らしい精悍な姿。

姉川の戦いではどうしても一番手を切ると譲らず、結局信長は陣立てを変更した、と伝わります。

 

三方ヶ原の意地は無駄じゃない

信長が勢いを増す中、他の大名も指をくわえて見ているわけではありません。

信長と対立した足利義昭の要請を受け、ついに元亀3年(1572年)、武田信玄が上洛を開始しました(※と言ってもこのときの武田家もかつての今川氏と同様、徳川領への侵攻であり、京都への上洛ではないとの見方です)。

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信玄率いる二万の軍勢は、甲府から徳川領へと侵攻開始。

徳川家康の敗因を探るまでもなく、数の差は圧倒的でありむしろ勝ち目がまったくない戦いでした。二番目の「神君三大危難」の開幕です。

このときの武田勢ときたら、破竹の勢いとか鎧袖一触とか、そんな言葉がふさわしい進撃ぶりでした。

家康のもとには信長から三千の援軍が到着します。

それでも形成は不利です。家康は本拠の浜松城に籠もり、武田勢の来襲を待ち受けます。

ところが敵は意外な行動に出ます。なんと浜松城を素通りし、三方原台地から浜名湖へと進んだのです。

これは当時のセオリーからすれば異常なことでした。

進軍する先にある城は落とす、あるいは少なくとも攻め手を送り込むのが常道。これはまるで猫が鼠をいたぶるような、あまりにひどい侮辱でした。

この見え透いた侮辱を目の前にして、家康と家臣の意見は対立します。劣勢であるからには見送るべきだという静観論に、家康は反対。

「見え透いた挑発であり、おびき出そうという魂胆はわかっている。しかし、これを見送っては武士として末代までの恥だ!」

家康は敢えて出撃し、敵の背後を突く決意を固めたのでした。

敵は家康の手を全て見通しておりました。徳川勢の進軍ルートを予測し、待ち構えていた武田勢は僅か二時間で相手を打ち負かします。

徳川勢も織田からの援軍も甚大な被害を被り、家康は忠実な家臣たちを身代わりにたてながら、なんとか撤退したのでした。

浜松城まで戻った家康は敢えて城門を開け放つ「空城の計」を用い、それを見た相手はそのまま引き揚げた、とも言われています。ちょっと出来過ぎた話のような気もしますが。

同合戦は【三方ヶ原の戦い】と呼ばれ、武田信玄相手に惨敗をした家康ですが、これは家康のキャリアにとって必ずしもマイナスになったとは思えない部分もあります。

「試合に負けて勝負で勝った」とは言い過ぎかもしれませんが、敢えて不利とわかっていても武士としての名誉に賭けて出撃するというその心理は、同じ武士にとって「心にグッと来る」行動ではないでしょうか。

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後年の狸親父というイメージもありながら、関が原の戦いで家康は、加藤清正ら豊臣恩顧の大名も取り込んでいるわけで、人の心を掴む要素があったはずです。

それがこうした武士としてプライドを賭けて困難に立ち向かった態度ではないでしょうか。

さて、徳川勢を蹴散らした武田勢は後が続きません。これまたご存知の通り、土壇場になって信玄が病死してしまったのです。

その死はしばし伏せられたままとなりますが、信玄の死による反織田勢力の後退を見逃す信長ではありません。

まずは天正元年(1573年)、信長は朝倉義景浅井長政を滅ぼしたのでした。

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勢いに乗る織田・徳川勢は、信玄亡き後の武田勝頼との戦いに挑みます。

天正三年(1575年)、長篠・設楽ヶ原の戦い(いわゆる長篠の戦い)で武田勝頼相手に大勝利。まさに最強のコンビともいえる信長と家康ですが、この先には思いも寄らぬ悲劇が待ち受けていたのでした。

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関ヶ原まで、あと二十五年。

 

信康切腹事件 理由は諸説あれど

天正年間はまさに世代交代の時代でした。

天正6年(1578年)、武田信玄と争った上杉謙信が急死。

後継者をめぐる【御館の乱】が発生します。

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長篠の戦いでの損害回復で勝頼も苦しい立場であり、武田と上杉がおとなしくなったその最中、信長の目は西へと向けられます。

この時期は、毛利攻めの羽柴秀吉が活躍していた時期です。

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一方で徳川家康はあくまで東担当であり、西の秀吉に、東の家康という構図が出来上がります。

徳川はこの頃、防備に専念する穏やかな日々となっておりました。

この比較的穏やかな時期の天正6年(1578年)、家康にとって悲劇的な事件が起こるのです。

家康の嫡男・松平信康の正室は、信長の娘・徳姫でした。

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彼女が父の信長に対し、信康母子を告発する書状をしたためたというのです。この内容が姑である築山殿との不仲程度ならともかく、二人が武田と通牒しているとあったから、信長としては見逃せません。

信長が徳川からの使者である酒井忠次に問い糾したところ、彼は否定しなかったため、信康は切腹、築山殿の死が決まってしまった、という流れです。

この不可解な悲劇の動機はいろいろな説があり、これだという決定的な証拠はなかなか見いだせていないようです。

ただ、とりあえず、信長が信康の器量を恐れた説は除外してもよいのではないでしょうか。

信長にとって徳川は重要なパートナー。その世継ぎが優れていたのならば、それはむしろ歓迎すべきことでしょう。この説は家康がのちに天下を取るというバイアスに基づいたものではないかと思います。

武田勝頼が送り込んだスパイである大賀弥四郎なる者が、徳川家中に深く入り込み、築山殿と信康を手なずけて武田を利する行動を取るように操った、というトロイの木馬のような説もあります。

あるいは武田信玄・武田義信父子のように、不仲が背景にあるとか。

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いずれにせよ、父が子、夫が妻を死なせなければならなかったのですから、痛恨事には間違いありません。

この事件によって、家康の嫡子は事件の翌年に生まれた秀忠となります。

関ヶ原まで、あと二十一年です。

 

恐怖の伊賀越え

天正10年(1582年)、信長は満を持して武田領に侵攻を開始。

相次ぐ武田家臣の離反が発生します。

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徳川家康は駿河から武田領へ攻め入り、ここでも頼りになるパートナーとして手腕を発揮します。信長は家康の功績に報い、家康は駿河を拝領することになったのでした。

宿敵である武田氏はここで滅び、信長も家康も祝賀ムードであったことでしょう。

信長は功労者の家康を本拠地の安土城に呼び、祝おうという流れになります。

ところがこの時、饗応責任者の明智光秀がよりにもよって腐った魚を用意してしまったらしい、ということが問題になります。

このとき信長は今でいうガチ切れをして光秀を激しく叱って蹴りを入れてしまったらしいのですが、信長の気持ちも、光秀の気持ちもわからなくもありません。

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信長としては、

「今は初夏だし、生ものの魚は腐りやすい。だからこそ、万事ぬかりなくこなす光秀に頼んだわけだろ。それを腐らせるとかありえない失態。しかも長年尽くしてくれた家康相手だぞ。俺の顔に泥を塗りおって!」

光秀としては、

「この生ものが腐りやすい季節に魚から腐った臭いがしたくらいで、蹴りを入れるなんてあまりに横暴だ。家康公は長年のつきあいって言いますけど、私だって長いこと仕えているじゃないですか。この間の甲州攻めでも面罵されましたし」

といったところですね。

家康は場の空気の悪さを感じ取ったと思ったかもしれませんが、まさかこの後、光秀が信長を討つとか思ったわけもありません。

信長の家康への慰労は続きます。

「長年いろいろありがとう。武田も滅びたことだし、一区切りってことで堺見物なんかどう? 茶会も楽しんでゆっくりしていってね」

信長としては安土の腐った魚事件もあることですし、それを補うためにも豪華ツアーを用意するわけです。

堺の接待尽くしで、家康も「いろいろあったけど、信長公と長年コンビ組んできてよかったよな」と思ったんではないでしょうか。

このとき信長の家康への対応を見ていると、ビジネスパートナーとして最高です。気遣いのある人だな、と思えます。

ただし、この「信長プロデュース家康お疲れ様ツアー」は最悪の形で幕切れとなるわけですが……。

信長手配の接待尽くしを楽しんでいた家康の元へ、6月2日に凶報が飛び込んできます。

前日、京都の本能寺で信長が光秀によって討たれたというのです。

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楽しいバカンスが一転、地獄のサバイバルになりました。

三番目の「神君三大危難・神君伊賀越え」の開幕です。

凶報に接して、家康は半ば諦めました。

「もう駄目だ。土民の手にかかって無残に死ぬくらいなら、切腹する」

そんな主君を本多忠勝ら家臣が止めます。

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「伊賀を越えて、帰りましょう」

そう提案したのは服部半蔵正成でした。忍者の代名詞となった「服部半蔵」ですが、服部半蔵正成自身は忍者ではなく、その父が忍者でした。

半蔵正成はこの父の代から家康に仕えていました。

家康は早くから伊賀忍者を活用していたようです。

信長は「天正伊賀の乱」で伊賀忍者に弾圧を加えましたが、家康はむしろこの時彼らを保護下に置いたのです。こうした家康の経歴が伊賀越えの時に生かされたことでしょう。

家康とその家臣たちは、少なくない犠牲を払いながらも険しい道を突破。生き延び、本拠地三河にたどり着きます。

家康は信長の仇打ちのために光秀討伐に向かうものの、羽柴秀吉が勝利をおさめたと知ると引き返します。

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そんな彼の前に、主を失った武田遺領が横たわっていました。

関ヶ原まで、あと十八年です。

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