伝・堀川城跡(浜松市北区細江町気賀)

徳川家

堀川城の戦いで家康が住民を虐殺!? 気賀攻めは臨済宗の一揆を恐れたから?

気賀を舞台に、守る今川、攻め込む徳川――。

2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、気賀の城=堀川城を舞台にした【堀川城の戦い】がありました。

この合戦では柳楽優弥さん演じる龍雲丸が刺され、その仲間たちもほぼ全滅という非常にハードな内容でしたが、多くの視聴者さんたちに、こんな疑問が湧いたそうです。

『堀川城の戦いって……史実にあったの? それとも創作?』

結論を先に申しますと、同合戦は史実ベースのお話です。

では、史実における堀川城の戦いとは、どのような合戦だったのか?

本サイトで井伊直虎特集を手がける戦国未来氏に、通説と合わせて同氏の解釈も記して貰いました。

 

細江湖の北岸に位置する交通の要衝・堀川城

史実における堀川城の戦いとはいかなるものか。

まずは、理解度を深めるため「気賀と井伊谷の位置関係」を確認させていただきます。以下の地図をご覧ください。

井伊谷の南西にあるのが気賀の街/作・戦国未来

大きめの赤枠で囲まれた「井伊谷」が井伊直虎の本拠地で(死ぬ直前の小野政次が立て籠もっていたのが井伊谷城)、その南西にあるのが気賀です。

気賀は細江湖(浜名湖北部の水域)の北岸に位置しており、同湖における交通の要衝でした。

ここで1569年に起きた德川軍と籠城軍の戦闘が【堀川城の戦い】となります。

堀川城そのものに関する伝承と通説(学説)については、以下の記事「徳川家康の遠江侵攻」をご参照いただくとして、

今回の原稿では「堀川城の戦い」、余談として「三河一向一揆」や「気賀の戦後(現状)」について触れてみます。

まずは「堀川城の戦い」の基本事項(5W1H)を確認しておきましょう。

①いつ?:永禄12年(1569年)3月27日

②どこで?:堀川城(静岡県浜松市北区細江町気賀)

③誰が?:堀川城の籠城軍と徳川軍

④何を?:德川軍が堀川城を攻めた

⑤なぜ?:気賀の人々が徳川家康に反抗して堀川城に立て籠もったから

⑥どのように?:松崎に本陣を置いた徳川軍が、干潮時に攻撃

では、一つずつ詳しく見て参ります。

まず①、合戦の行われたタイミングについて。

徳川家康は、前年・永禄11年(1568年)の12月中旬、堀川城のあった気賀を避けるルートで、遠江国へ侵攻しました。

堀川城の戦いが起きたのは、遠江入りしてから3ヶ月後。

その位置は、前述の通り、静岡県浜松市北区の細江町気賀となります。

しかし、ここで一つポイントが。

このときの戦いの「堀川城」は、「堀川」に築かれた「堀川城」(「気賀砦」とも)ではなく、「大鳥居」北端の高台にある屯倉神社跡地に築かれた「堀川城」(「新城」「鵜ノ毛城」とも)になります。

堀川城は、気賀の中に新旧2つあったのですね。

戦いの舞台となった新しいほうの堀川城(大鳥居)は高台の上に築かれ、たとえ満潮時でも大河ドラマのように「水上の城」になることはありませんでした。

ただし、城の周囲は都田川の支流(人工運河?)に囲まれておりましたので、干潮時に徒歩で渡れても、満潮時に堀川城へ行くには舟が必要だったようです。

以下の地籍図をご確認ください。

堀川付近の地籍図

地図上部で、鉄道の路線が東西に敷かれており、気賀駅があります。

駅の南西に大河ドラマ館があり、さらに南西が堀川、そこから更に南へ進むと大鳥居という位置づけです。

では、その堀川城に立て籠もったのは誰だったのか?

答えは今川軍……というより気賀と周辺の民衆が中心でした。

 

干満差の大きい大潮を狙い3,000の兵を用意

攻める徳川軍3,000人に対し、堀川城に立て籠もったのは2,000人。

当時の気賀は人口2,000人ですから、全人口となります(伝承では気賀2,000人と刑部1,000人、計3,000人のうち2,000人とも)。

男だけではなく、女も参戦しました。

それも何も持たずに避難したのではなく、彼らは竹槍や猟銃を持っており、戦う意志を携えながら自主的に集まったのです。

ドラマでは、堀川城は強制収容所となっており、城代・尾藤主膳らが声を張り上げ扇動しておりました。

「徳川というのは、今川様のように寛大ではない。戦、戦で成り上がってきた鬼のようなやつらじゃ。勝てば略奪の限りを尽くそうとし、下ったとても、人買いに売られるだけじゃ」

「腹をくくれ~。うぬらにはもう後が無いのじゃ~」

これに対し、史実の德川軍はどう動いたか?

まず家康が見極めたのは“潮”でした。

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潮の干満差が大きい大潮は、月初1日の前後三日間となります。そこで都田川(落合川)の対岸・松崎に本陣を置き、大潮を迎える3月27日の干潮時に徳川軍3,000人で攻め込んだのです。

この日を選んだのは、船ではなく徒歩で攻めかかるためです。

なお、ドラマでは、本陣に徳川家康がおらず、酒井忠次が独断で攻めたことにしておりました。

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が、史実では家康が指揮を執っておりまして。

どうもこのドラマでは、徳川家康を悪者にしたくない様子も窺えます。

上の地籍図や現在の地図を見ると、大鳥居と松崎の間に「都田川」(「新川」「落合川」とも)がありますが、当時の都田川(「大川」とも)は現在の葭本川と要害堀であって、大鳥居と松崎の間は大河ではありませんでした。

この「新川」(「新しい都田川」の意)はどんどん川幅を広げて、現在のような大河(都田川)となりました。

地籍図の東側・油田という地に大円寺があります。

臨済宗方広寺派であって妙心寺派ではないので戦いには参加せず、応援のため住職・春浦和尚が「徳川家康が今すぐ死にますように!」とご祈祷を行いました。

しかし、家康が勝ったので「自分の法力不足」と恥じ、鐘をかぶって寺の「大日池」に飛び込んで、入水自殺しました。

この池は今はありません。

どこへ行ったか? 埋められた?

実は新川の川幅が広まり、この池は、現在は川底となっているのです。

 

1,000人を撫で斬りに! 捜索隊も駆使して700人を更に……

かくして3月27日、松崎に本陣を置いた徳川家康は、干潮時に攻撃を開始しました。

地面はぬかるんでいたので、三方ヶ原で刈り取った柴を撒きながら進軍したそうです。

3,000人の武士が、1人で3人の農民を「撫で斬り」(たくさんの人を次々に切り捨てること)すれば9,000人殺せますが、実際に殺したのは2,000人中の1,000人。1,000人には逃げられています。

いくら戦闘意欲マンマンで城を守ろうとしても、農民は農民、いざとなれば怖くて逃げてしまうのですね。

この逃げた1,000人を德川家康は半年間捜索し、見つけた700人を処刑して、首を畷(なわて・田んぼの畦道)に並べました。

この畷を「獄門畷」と呼んでおり、今も石碑が残っております。

獄門畷

「獄門畷」現地案内

上記の看板は「獄門畷」に設置されている現地案内版です。

文字に起こしてみましょう。

「獄門畷(ごくもんなわて)

永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。

堀川城址は、ここから南へ六百メートル程にある。

永禄十二年(一五六九)三月二十七日、堀川城に二千人の男女が立てこもり、三千人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。

大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした」とある。そしてその後に捕えられた約七百人の人々も、同年九月九日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。」

(現地案内板)

こちらでも「男女共になで切りにした」とありますね。

どうしてそんなことになったのでしょうか。

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