水野信元

絵・小久ヒロ

徳川家

家康の伯父 水野信元は織田徳川同盟のキーマン 最期は切腹を命じられ

家康の実家と言えば松平。

江戸幕府の傘下にも多くの“松平家”がありますが、同時に母方の実家として知られるのが【水野家】ですね。

この水野家もまた数多の要人を輩出しており、その中で特に知られるのが土井利勝でしょうか。

家康の落胤(隠し子)と噂されるほど、幼少期から特別扱いされた土井利勝。

水野家と何の関係があるの?

そう思われるかも知れませんが、実は、利勝の父が水野信元なのです。

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では寺島進さんが演じられ、序盤で存在感を発揮していましたよね。

信長と家康をつなぐ――そんな重要な役どころゆえに当然とも言えるのですが、実はそのまま安泰とは言えず、最期は信長に処刑を言い渡されるという波乱万丈の生涯を送っています。

一体、何がどうしてそうなったのか。

天正3年(1576年)12月27日が命日となる、水野信元の事績を追ってみましょう。

 


水野信元 三河尾張の国境エリアで生まれる

水野信元の生年は不詳。

三河と尾張の国境近くに領地を有する水野忠政の長男として生まれました。

彼には同母・異母含め多くの兄弟姉妹がおり、その中で特筆すべきがやはり妹・於大の方でしょう。

※以下は於大の方の生涯まとめ記事となります

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彼女は父・忠政の意向によって松平家当主の松平広忠と結婚。

二人の間に生まれたのがあの徳川家康なのです。

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こうして「後の天下人」を輩出する水野家ですが、当時、彼らが置かれた政治状況はかなり複雑でした。

「三河・尾張の国境近く」という立地は非常に難しいエリアで、松平氏のほか今川氏や織田氏といった強大な勢力に囲まれており、彼らの意向を無視して存在し得なかったのです。

どうすれば領国を守れるか――。

水野氏は常にドコかの勢力と手を結んでいかねば生き残ることはできず、その判断は常にシビアでした。

そして水野忠政は「松平氏と結ぶ」という決定をしますが、これは先祖代々からの慣例を守った保守的思考とも表現できます。

松平氏との間には古くから姻戚関係を重ねてきており、両家はともに今川氏の配下として発展してきたのです。

こうした難しい一族経営のかじ取りを担っていた忠政が、天文12年(1543年)に逝去。

後継者として一族のトップに立ったのが水野信元でした。

 


外交方針を大転換! 家康の人生にも大きな影響を与えた

群雄割拠の東海地方を生き抜いていく使命を背負わされた信元。

代替わりにすぐさま「外交方針の大転換」に着手します。

先祖代々、友好的な関係を築いてきた松平氏を切り、織田家と結ぶことにしたのです。

当時の織田家は、信長の父である織田信秀が勢力を急伸させている頃でした。

でも、なぜ信元は方針転換したのか?

具体的な有力史料からは確認できませんが、考えられる原因としては以下の通り。

・松平氏は、広忠の父である松平清康が亡くなってから衰退していた

・松平氏の重臣層にも織田信秀と組む者が現れてきた

・他国に攻勢を仕掛けるため、織田氏としても背後を脅かされかねない水野氏と手を組んでおきたかった

一言でいってしまえば「松平氏が落ち目であり、勢いのある織田氏と思惑が一致した」という「戦略外交的な判断」になるでしょう。

 


妹・於大の方は離縁された

だからといって水野信元が薄情なタイプの武将とは言い切れません。

戦国大名にとって絶対の使命は、家と自国の領地を守ることです。

たとえ先祖代々の付き合いであっても、衰退する松平氏と手を切るのは当たり前の判断――というか水野氏の家臣団や親類筋にしても、忠政→信元への代替わりを機に織田氏への乗り換えを推し進めた可能性も十分にあります。

問題は、妹・於大の方でした。

彼女は「松平氏と水野氏友好の証」です。

しかし、信元が松平氏との決別を表明した以上、広忠としても於大の方を妻としておくメリットがありません。

案の定、彼は於大の方を離縁し、まだほんの赤子である竹千代(後の徳川家康)は、生後まもなく生母と離れ離れになってしまったのです。

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ちなみに、戦国時代の婚姻は政略結婚の意味合いが非常に強く、広忠の行いも「薄情だった」というわけではありません。

武田信玄が【甲相駿三国同盟】を裏切って駿河の今川氏真を攻めたとき、巡り巡って北条氏政に嫁いでいた信玄娘の黄梅院が離縁され、甲斐へ戻されたなんてケースもあります(そして程なくして亡くなってしまう)。

政略的な意味がなくなっても妻を離縁しない大名もいますが、それはむしろ例外的。広忠と同じことをする戦国大名が大半でした。

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美濃攻略に失敗した信秀が追い込まれ

かくして織田方につくことを表明した信元。

天文16年(1547年)には織田信秀が松平氏の拠点である安城城と岡崎城を落とすといった活躍を見せ、松平氏は壊滅状態に追い込まれました。

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信元にとっては「してやったり」という気持ちだったかもしれません。

しかし、信秀はこの時期にマイナスの転換点を迎えていました。

勢いに乗っていた信秀ですが、美濃・斎藤道三の攻略に失敗。以降、織田家では家臣団の足並みが乱れを見せるなど、一転して苦境に陥ってしまいます。

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一方、ドン底を味わって吹っ切れたのでしょうか。

松平氏はこれまで以上に今川氏の影響下に入って結びつきを強め、彼らと共に反織田攻勢に打って出ます。

まず天文17年(1548年)に【小豆坂の戦い】で今川・松平は織田に勝利。

三河への影響力を急速に失いつつある織田信秀は病がちになり、嫡男・信長へのバトンタッチを意識するように追い込まれていきます。

今川氏の支配下で着々と勢力を回復していた広忠は、家中の反乱分子も打倒すなど優位に領国支配を進めました。

まさに松平にとっては復活の転換点となった……はずでしたが……。

天文18年(1549年)、松平広忠は突如として暗殺されてしまうのです。

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