福島正則/Wikipediaより引用

豊臣家 れきしクン

福島正則すったもんだの転封&改易劇〜終焉の地は意外や信州!

こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルです。

全国的にはマイナーかもだけど、ある地域ではバツグンの知名度を誇る「ご当地マイナー武将」をご紹介している当連載。

れきしクン記事list

第12回 兵主源六 第11回 安芸国虎

第10回 大島雲八大島光義

第9回 太田左近紀州征伐

第8回 木曽義昌 第7回 豊島泰経

第6回 長野業正 第5回 藤田信吉

第4回 溝口秀勝 第3回 戸田氏鉄

第2回 村上義清 第1回 九戸政実

第13回となる今回は「福島正則」さんでございます!

「え? 福島正則? 普通に全国的に有名じゃん!」と思われますよね。

さらに、戦国好きの方だったら「豊臣秀吉の親戚で、出身は尾張(愛知県)でしょ?」と付け足したくなりますよね。

確かにおっしゃる通りで何も返す言葉がございません(笑)。

ただ、今回はスペシャル枠ということで、“あのメジャー武将の意外なゆかりの地”としてご紹介させていただければと思います。

 

福島正則 なぜ長野県北部の町村がゆかりの地に?

「意外な地」とはどこなのか?

戦国好きな方でしたら、こう申されるかもしれません。

「愛知県清須市でしょ? 秀吉政権の時に清洲城の城主を務めてたんだし」

「はいはい、江戸時代徳川家康から広島城主を任されたから広島市ね?」

フフッ……今回はそのどちらでもございません。

福島正則さんの意外なゆかりの地というのは「長野県高山たかやま村&小布施おぶせ町」です!

豊臣恩顧として知られる福島正則さん。なぜ長野県北部の町村がゆかりの地に?

結論から申し上げますと終焉の地だからです。

天下人の縁戚を出自に持ち、戦国の世を駆け抜け大大名が、縁もゆかりもなかった信州で最期を迎える―――いったい何があったのか?

晩年にピントを合わせつつ、その生涯に迫っていきましょう!

 

桶屋の倅が武士になった理由

福島正則さんが尾張の海東郡に生まれたのは1561年(永禄4年)のこと。

タメには、後に「関ヶ原の戦い」で因縁を持つことになる井伊直政(家康の重臣、徳川四天王)や吉川広家(毛利元就の孫、吉川元春の子)などがいます。

また、出来事で言うと武田信玄と上杉謙信による「第四次川中島の戦い」が起きた年でもあります。

これまた因縁ですが、福島正則が晩年を過ごした長野県北部は、まさに武田信玄と上杉謙信が奪い合って5度に渡る大きな戦いを繰り広げた場所でもありました。

第四次川中島の戦い 展開のカギを握るのは城戦略だった【戦国頂上決戦譚】

続きを見る

そんな福島正則さんの実家は武士ではなく桶屋だったそうです。

なぜ桶屋の倅が、武士として取り立てられたか? というと母親が大政所の妹だったと言われているためです。

大政所というのは、秀吉の母親にあたるお方。ハッキリと分かっていない部分は多いんですが、福島正則さんと秀吉は従兄弟の関係だったんですね。

ちなみに、歴史ドラマなどで福島正則さんとペアで描かれがちな1歳年下の加藤清正も、母親が大政所と従姉妹だった(妹とも)と言われています。

加藤清正/wikipediaより引用

福島正則さんの幼名は「市松」と言います。

市松と聞くと、歴史好きならずとも連想するのが「市松模様」ですね。福島正則さんが由来!と言いたいところですが、コチラは江戸時代中期の歌舞伎役者だった佐野川市松が白と紺の格子模様が施された袴を履いて流行したため、市松模様と呼ばれるようになったそうです。

1年延期となった「2020年東京オリンピック」のマスコットキャラのミライトワにも、日本を代表する模様として市松模様がデザインされていますね。

話が逸れました!
改めて言いますと、市松模様と福島正則さんは関係ございません(笑)

 

初陣は干し殺しでお馴染みの三木城だった

さて、主人公に話を戻しましょう!

福島正則さんはハッキリした時期は不明ながら、幼少期から秀吉に仕えたといいます。

幼名を「虎之助」と言った幼馴染の加藤清正は、天正元年(1573年)に秀吉が長浜城(滋賀県長浜市)の城主になった頃に小姓となったと言われていますので、福島正則さんもおそらくそのタイミングでしょう。

年齢は、数え年で13歳。
それから5年後の天正6年(1578年)に、当時18歳の福島正則さんは初陣を迎えます。

何の戦いだったかというと、主君である秀吉が織田信長から命じられた三木城(兵庫県三木市)の攻防戦です。

秀吉は周囲に本陣や付城つけじろ(砦)を築き、兵糧攻め作戦である「三木の干し殺し」が2年近く行われ、城主の別所長治べっしょながはるは城兵の助命を条件に自害。落城を迎えたことで知られています。

ちなみに、秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛(重治)は、三木城を包囲している最中に亡くなったため、三木市にお墓が建てられています。

三木市にある竹中半兵衛の墓

その後も秀吉の側近として各地を転戦。大きな転機となったのが、やはり天正10年(1582年)【本能寺の変】でした。

本能寺の変 真相に迫る有力諸説を検証――黒幕はいたのか ただの偶然か

続きを見る

 

明智光秀軍を相手に勝竜寺城攻め

主君の秀吉は、備中高松城(岡山市)を水攻めしていたものの、敵方の毛利家と和睦を結んで「中国大返し」と呼ばれる強行軍で京都へ向かいます。

この行軍に、福島正則さんも同行していました。

そして、本能寺の変から11日後に、秀吉軍と明智光秀軍との【山崎の戦い】が勃発。

秀吉軍は勝利を収めますが、この時に福島正則さんは明智光秀の支城となっていた勝竜寺城しょうりゅうじじょう(京都府長岡京市)攻めで武功を挙げたそうです。

ちなみに、この勝竜寺城は、かつて細川幽斎細川藤孝)の居城であり、明智光秀の娘のガラシャ(玉)が嫁ぎ、夫の細川忠興と新婚生活を送った場所でもあります。

山崎の戦いで敗れた明智光秀は、勝竜寺城に入ったものの、福島正則さんを含む秀吉の大軍を前に撤退を決意。

明智光秀55年の生涯まとめ! なぜ織田家の出世頭は本能寺に襲いかかったか

続きを見る

居城の坂本城(滋賀県大津市)を目指しますが、その途中の京都・小栗栖おぐるす(京都市伏見区)で落ち武者狩りに遭い、亡くなってしまうのです。

勝竜寺城

こうして、秀吉は天下取りレースの有力者に急浮上!

翌年の天正11年(1583年)には、織田家の後継者争いで対立した柴田勝家と激突。あの「賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい」(滋賀県長浜市)が起こります。

この合戦で超が付くほどの大活躍をしたのが、福島正則さんです。

福島正則さんは戦場での誉れである「一番槍」(戦場で一番初めに敵陣に槍を突き入れること)を果たします。さらに敵将の首を誰よりも早く取る「一番首」の武功を挙げました。

この戦いで秀吉軍は大勝利!

特に活躍した秀吉の家臣は、戦国好きにはおなじみ「賤ヶ岳の七本槍」と称されました。その筆頭が、何を隠そう福島正則さんです。

7人の中では他に幼馴染の加藤清正が有名ですね。残りのメンバー(加藤嘉明、脇坂安治片桐且元かたぎりかつもと、平野長泰、糟谷武則かすやたけのり)は3,000石の褒賞ながら、福島正則さんは5,000石をゲットしているのです。

 

衝撃!秀次切腹事件

その後も、秀吉のお気に入りの大名として各地を転戦して、大名へとのし上がって行きました。

以下、ザックリ年表をどうぞ!

◆天正12年(1584年)
小牧・長久手の戦い
秀吉 vs 織田信雄おだのぶかつ(信長の次男)&徳川家康の連合軍

◆天正13年(1585年)
【四国征伐】
秀吉vs長宗我部元親ちょうそかべもとちか

◆天正15年(1587年)
【九州征伐】
秀吉vs島津義久
⇒伊予(愛媛県)で11万3千石の大名となる。
お城は唐子山からこやまに築かれていた国府城こくぶじょう(今治市)。※今治城が藤堂高虎によって築かれるのは1602年から

◆天正18年(1590年)
小田原征伐
秀吉vs北条氏政北条氏直
⇒織田信雄の軍勢に加わり韮山城にらやまじょう(静岡県伊豆の国市)を包囲して開城

◆文禄元年(1592年)
【文禄の役】
(秀吉による1度目の朝鮮出兵)
⇒五番隊の総大将として長宗我部元親や蜂須賀家政はちすかいえまさなどを率いて活躍

以上のような感じです!

さらに福島正則さんは24万石の大大名となります。

それが文禄4年(1595年)のことなんですが、この年、秀吉の甥で養子となっていた豊臣秀次切腹するという大事件が起きました。それは……。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家, れきしクン

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.