絵・小久ヒロ

豊臣家

浅井三姉妹の江から生まれ淀殿に育てられた豊臣完子(さだこ)は秀吉の大姪

万治元年(1658年)8月18日は、豊臣完子(さだこ)が亡くなった日です。

苗字からすると、一瞬『豊臣秀吉に娘なんていたっけ?』と思ってしまいますが、彼女は秀吉の子供や養女ではありません。

大姪(兄弟姉妹の孫・ここでは秀吉の姉の孫)にあたります。

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ややこしいので、まずは系図から見ておきますと……。

完子の父親は豊臣秀勝で、母親がお江与。

豊臣秀勝は、豊臣秀吉の姉・とも(日秀尼)の子ですから秀吉の甥っ子ですね。

一方、お江与とは、徳川秀忠の妻となるお江与であり、浅井三姉妹・江(ごう)の表記で親しまれているかもしれません。

要は、

・豊臣(秀吉の姉)
・浅井(長政)
・織田(お市

の血が混ざった、なかなか複雑な立ち位置の女性ですね。

そんな彼女は一体どんな生涯を送ったのでしょうか。

 

豊臣完子にとっての「母」は淀殿だった?

完子は、文禄元年(1592年)生まれ。

三歳のときに江(お江与)が徳川秀忠に嫁いだため、以降、母とは離れて育ちます。

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なんせ嫁ぎ先が徳川家のトップであり、そこへ豊臣の血を引く娘を連れていくわけにもいかず、結局、完子は伯母である淀殿に預けられました。

おそらく、完子にとっての「母」とは淀殿だったでしょう。

淀殿に娘がいないこともあってか。

姪っ子の完子は随分と可愛がられ、12歳で公家・九条幸家に嫁いだときも、京の人々が珍しがるほど盛大な支度を整えてやったといいます。

もちろん、お江与も娘のことを愛していました。

離ればなれになるとき、自分の侍女の1人である”いと”を完子につけていったとされています。

いとがどんな人物だったかは不明ですが、おそらく相当信頼され、場合によっては完子の母親・姉代わりになれるような女性だったのでしょう。

物心がつくかつかないかの娘を任せるのですから、実母としては辛い決断だったに違いありません。

 

夫の九条幸家は武家との繋がりを持てるように

九条家に嫁いだおかげで、慶長二十年(1615年)に豊臣家が滅亡したとき、完子にお咎めはありませんでした。

しかし、母代わりだった淀殿の最期を聞かされるワケですから、心労のキツさは極みだったでしょう……。

以降の完子は、母の三人目の夫・徳川秀忠の養女という立場になります。

そのおかげで、自らの夫・九条幸家は、朝廷の中で武家(徳川家)との繋がりを強く持てることになりました。

秀忠の娘であり、完子の義理の妹でもある和子が後陽成天皇に嫁いだときも、幸家が仲介役の一人になったとか。

2人は夫婦仲も良かったようで、四男三女にめぐまれています。

一人だけ19歳で亡くなった娘がいますが、他の子供は無事に成長。多産ぶりは母に似たという面もあるでしょうね。

完子自身は秀吉から直接の血こそ引いておりませんが、姉を通じて「豊臣家」の人間の血を女系で続いたことになります。

完子の子孫の一人が貞明皇后ですので、皇室にもその血は流れているといえますね。

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