日本中世史のトップランナー(兼AKB48研究者?)として知られる本郷和人・東大史料編纂所教授が、当人より歴史に詳しい(?)という歴女のツッコミ姫との掛け合いで繰り広げる歴史キュレーション(まとめ)。
今週のテーマは、聚楽第と豊臣政権、そしてそれに伴う京都の城考察です!
【登場人物】
本郷和人 歴史好きなAKB48評論家(らしい)
イラスト・富永商太
ツッコミ姫 大学教授なみの歴史知識を持つ歴女。中の人は中世史研究者との噂も
イラスト・くらたにゆきこ
◆秀吉・聚楽第 跡に新たな外堀 「本格的な城」裏付け 毎日新聞 3月10日
本郷「へー。聚楽第は城だったんだねー」
姫「京都のお城というと、二条城よね。でも、平清盛の昔から、京都って、お城のイメージないわよね」
本郷「そうだねー。いま話に出た平家が本拠とした六波羅の地に、鎌倉幕府は六波羅探題を置いている。そのあとの室町幕府はまさに京都に武家政権を置き、応仁の乱などが京都を舞台として戦われた。そのわりには京都に本格的な城郭は築かれないイメージだよね」
姫「京都は防衛が難しい地、といわれるわよね。それと関係ありそうね」
本郷「うん。室町時代の戦いの歴史を見ていると、京都を外から攻める側がたいてい勝っている。京都に陣を構えた側が勝っている例は、1391年、明徳の乱の足利義満(攻めてきたのは山名氏清ら)くらいだね。地政学的に見て、京都を防衛拠点にする、というのは難しいんだろうね」
姫「だから聚楽第も、お城というよりは屋敷、政庁という感じで捉えられていたのかもね」
本郷「そうかもしれないなあ。ざっと聚楽第の歴史を見ていくと、着工は1586(天正14)年2月。秀吉は前年の7月に関白に就任している。それで完成は1587年の9月だね。九州征伐を終えた秀吉は大坂城からここに移り、政務をみているんだ」
姫「1588年の後陽成天皇の聚楽第行幸は有名よね。それで、そのあと、豊臣秀次に譲られるわけね」
本郷「そう。鶴松(*長男)を失った秀吉は1591年(天正19年)12月に豊臣氏の氏長者・家督および関白職を姉・日秀の子である甥の秀次に譲るわけだけれども、このときから聚楽第は秀次の邸宅となったんだ」
姫「だけどお拾(のち秀賴)が生まれると秀次の存在が邪魔になって。彼に自害を命じ、その家族をみんな処刑するとともに聚楽第を徹底的に破壊するのよね。このあたりの秀吉って、権力者の業のようなものを感じさせて、怖すぎるわね」
本郷「うーん。日本にはここまで残虐な人、そんなにいないよね。中国にはこういう皇帝、いっぱいいるけど。聚楽第は、まあ、とばっちりをくらった感じだね」
姫「そういえば、わたし、あんまり豊臣秀次その人については知らないのよね。秀吉の血を分けた甥、とか小牧・長久手での失敗くらいしかイメージがない。少し教えてくれる?」
本郷「はいはい。秀次が歴史に登場するのは、おじさんの秀吉が近江横山城主だったころ。このとき秀吉は浅井長政の攻略に努めていて、浅井の部将を次々に調略していた。その中に宮部城主の宮部継潤がいてね、当時4歳の秀次は継潤の養子となって「宮部吉継」を名乗ることになったんだ
姫「実質的には人質みたいなものね。でも、継潤って、このあとずうっと秀吉に仕えて良いポジションを守り続ける人よね」
本郷「お、よく知ってるね。鳥取城の城主になって、石高こそそれほど多くはない(8万石余り)けれど、豊臣政権を政治的にも盛り立てた人だね。五奉行とかになったとしてもおかしくない感じ。それから宮部家家臣だった田中久兵衛が傅役についたといわれるんだけれど、彼が関ヶ原の戦いののちに柳川32万石の大大名になる田中吉政だ」
姫「あ、近江の農民出身だった人ね。関ヶ原で敗れて落ち延びた石田三成を捕縛したのよね。ふーん、そういう感じでつながってくるんだあ」
本郷「秀吉が長浜城主になった頃には、宮部との養子関係は解消されていたらしい。で、彼はさらに秀吉の持ち駒として養子に出される。次なる養父は三好康長だったんだ」
姫「わりとマイナーな人ね。えーと、三好長慶のおじさんだっけ?」
本郷「そう。長慶の父の元長の弟だ。この人は四国の阿波に所領をもっていた」
姫「あれ?いま注目を浴びている、本能寺の変の四国説と関係あるの?」
本郷「ご名答! 信長は明智光秀を長宗我部家の申次に任じて、武力討伐をしない、って方針だったじゃない。だけど、それが急に変わって、四国攻めが行われることになった。その一因として、長宗我部家の阿波進出があったらしい。するとここに【光秀-長宗我部元親】と【秀吉-三好康長】の対立の図式を見ることができて、興味深いね」
姫「なるほどねー。光秀は面子を潰されて本能寺に信長を襲った、というのが【四国説】だけど、そこに秀吉が一枚かんでるのかー。ふーん」
本郷「まあ、【四国説】がどこまで有効かはこれからの議論になるけれど、ともかく秀次は三好家の養子になって、【三好信吉】を名乗ったらしいよ」
姫「それから、彼の正室は池田恒興(*信長の乳母兄弟)の娘、って記憶しているけれど」
本郷「そうだね。婚姻の正確な時期はよく分からないらしいけれど、恒興は清洲会議に出席して秀吉の主張を指示しているから、【羽柴-池田】の連携と、この縁組みは深く関わっているだろうね」
姫「へー。彼自身が何かしたわけじゃないけれど、ちゃんと役に立っているじゃない」
本郷「そうだねー。秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いでは別働隊を率いて大敗を喫し(舅の池田恒興は戦死)、秀吉にこっぴどく叱られた。だけど、この時期、実子がいなかった秀吉の後継者レースでは、彼は一番手だったと思われるんだ」
姫「じゃあ、あの戦いでの彼は、羽柴秀次ではなく、三好信吉だったのね」
本郷「いや、それ以前に三好との関係は解消したらしいよ。だから、この時の名は羽柴信吉なのかな。それで、秀吉が関白に就任した前後に、信吉から秀次に名乗りを代えている」
姫「領地とかはどうだったの?」
本郷「1585年の四国平定の後に、自身の分として20万石、彼を支える宿老(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)たちへの分として23万石が与えられ、併せて43万石の大名となり、現在の近江八幡市の八幡山城を居城とした。安土城の近くだね」
姫「このころの秀次はどうなの? 小牧・長久手の時みたいな失敗続き?」
本郷「いやいや。いろいろな戦いに総大将クラスで出陣しているけれど、全く問題ないよ。もちろん、自分で戦っていたわけではないけれど、大将として立派に職務を務めている」
姫「じゃあ、ますます豊臣家の後継者として認められていくわけじゃない」
本郷「そうだよね。それで小田原攻めの後に、織田信雄が東海地方への転封を拒否して改易されると、信雄領の領地を与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名になった。居城は八幡山から、清洲に移したんだね」
姫「それで、天正19年に正式に秀吉の後継者となり、関白職について、聚楽第に入ったわけね。うーん。そこまでは順風満帆なのにね」
本郷「うん。だから急な彼の失脚と彼自身の自害、妻子の処刑をみると、どうしたんだ、秀吉!という感じがするよね。豊臣政権の落日を物語る、それが聚楽第の破壊かもしれないね」
【TOP画像】Photo by (c)Tomo.Yun