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【孝明天皇】
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なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取れたのか
三浦は、長年の疑問が氷解しました。
『なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取っていたか』
その源がこの【宸翰】であり【御製】であると、理解したのです。
「山川さん、こりゃ……世におったさんようお願いできんか。これが出れば、大変なことになる! 会津の殿にゃあ、まことに気の毒なことをした。どうか、このとおりじゃ!」
「ほだごど言われましても。ところで、松平家の援助を政府に再三願っでおるのですが、どうにも芳しくねえのでして。朝敵に渡す金なぞねえのは、わがるのですが、どうにかならんもんでしょうか」
「松平家が大変なこたぁようわかった。わしから上に、よう伝えちょくる!」
「ありがてえごとです」
三浦はこのことを、土佐藩出身の宮内大臣・田中光顕、政府中枢に相談しました。そして大変なことになりました。
「そねえなんを、世に出したらならん!」
かくして要求は通り、松平家のために政府から3万円が下賜されることになったのでした。
しかし山川の心境は複雑だったことでしょう。
病床にあった松平容保は、この宸翰と御製を山川浩に見せ、必ずや世に出して欲しいと訴えていたからです。
山川兄弟は、その容保の願いを叶えるため、活動してきました。
しかし、背に腹は代えられぬ。
いつかきっと、この宸翰と御製は世に出ることでしょう。その日まで、耐え抜くことにしたのです。
長州を憎み会津の忠義を信じていた
ではなぜ、政府は山川の要求を呑んだのでしょうか。
そこには【孝明天皇が長州藩を憎み、会津藩の忠義を信じていた】と書いてあるからです。
それまで散々、天皇のために尽くしたのは長州藩であり、会津藩こそ天皇に楯突いた朝敵であると標榜してきた以上、それをひっくり返されるのは困ることでした。
しかし、明治37年(1904年)元会津藩士・北原雅長(神保修理の弟)が『七年史』を刊行。
その中で宸翰と御製の内容を発表します。
北原は「不敬罪」(天皇を侮辱した罪)で拘留されてしまいました。
しかし明治39年(1906年)。
『孝明天皇紀』が出版され、ここでも宸翰が明るみに出ます。
「こうなったら、もうよかんべ」
山川も、もはや隠し通す意味がないとして、兄の著作に大幅加筆した上で明治44年(1911年)、『京都守護職始末』を世に送り出したのでした。
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文:小檜山青
【参考文献】
『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)』家近良樹(→amazon)
『国史大辞典』