大奥といいますと、女性同士が将軍の寵愛をめぐってドロドロ……そんなイメージがあるかと思います。
確かにその手の駆け引きはありますが、実のところ寵愛よりも“政治権力闘争”が行われていた場合も多いようで。
特に幕末、13代将軍・徳川家定の後継者をめぐる「将軍後嗣問題」に関しては、後に江戸後期の著名な騒動が起きるほど熱い火花が散っておりました。
大奥の女性たちは、男性たちに負けていません。
権力闘争に流されるだけではなく、自分自身の政治見解や忠誠心をもって、幕末という難局に立ち向かった者たちもおりました。
そんな中で「勤王女傑」と称されたのが、西郷隆盛や篤姫とも関わりが深い村岡局(津崎矩子)。
明治6年(1873年)8月23日が命日となります。
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近衛家に出仕 そして篤姫がやってきた
のちに村岡となる津崎矩子(つざきのりこ)は、天明6年(1786年)、京都で誕生。
寛政10年(1798年)から近衛家に出仕しました。
現在で言えば、若くしてエリートコースに乗った、聡明なキャリアウーマンといったところでしょうか。
彼女は中臈(ちゅうろう・優秀な女官)を経て老女(ろうじょ・女官の責任者)となると「村岡局」を名乗り、近衛忠熙の信頼を得ます。
そして迎えた1856年。
近衛家に、薩摩藩の島津家から篤姫がやって来ました。
将軍・徳川家定への輿入れ前に、忠熙の養女とされたのです。
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もともと忠熙の正室だった島津家出身の郁姫は、既に亡くなっていたため、代わりに村岡が篤姫の養母役に……。京都から江戸の大奥へと向かうこととなりました。
時局は大きく動いていました。
1853年のペリー来航以来、人々は日本の行く末がどうなるのか、固唾を呑んで見守っています。
ときの孝明天皇は大の外国嫌いで、断固たる攘夷派。
天皇に側近くに使える左大臣・近衛家の人々も、その意見に接していました。
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村岡とて例外ではありません。
尊皇攘夷のために自分なりにできることは何か。そんなことを考えながら、江戸に向かったことでしょう。
将軍家の後嗣問題に関わる篤姫の存在
村岡が付き従った篤姫も、ただの御台所として大奥に入ったわけではありません。
将軍家後嗣問題にとって重要な手駒として、その場に臨んでいたのです。
篤姫の夫である将軍家定のあと、将軍家の世継ぎと誰にするか?
幕府内は、一橋派と南紀派に分かれ、バチバチやりあっていました。
ざっと陣営を確認しておきますと……。
幕末の名だたるメンバーばかりですね。
当時の勤王家は「国難を乗り切るためには英主こそ必要」と考え、一橋派を支持していました。
徳川斉昭は激烈な攘夷論者であり、外国嫌いの孝明天皇を要する勤王家はそこも支持をする理由でした。
ただし、島津斉彬は開国派であり、完全に足並みが揃っていたとは言いきれません。
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大奥では、徳川斉昭がその性格や行動ゆえ大変に嫌われており、息子の慶喜もとばっちりを受けるような形で、嫌われていました。
あんな男の息子が将軍なんてとんでもない、というわけですね。
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この状況を変えるのが、篤姫とその周辺にいた女性たちに課せられた役目でした。
村岡は西郷隆盛、月照、梅田雲浜、幾島らと連携しながら、大奥内での工作を進めることになるのです。
結果、争いは南紀派の勝利に終わります。
そして、大老・井伊直弼は一橋派の処罰に大なたを振るうのです。
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近衛家の清少納言と讃えられ安政の大獄で……
さて、この「安政の大獄」。
かの吉田松陰が処刑されたため、
「幕府(井伊直弼)が将来の人材を殺してしまった」
かのように思われがちですが、その誤解は解いておきたいと思います。
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この大獄は、あくまで将軍後嗣問題で対立した一橋派の処断を狙ったものでした。
松陰の場合、その取り調べ過程で参考人として訊問を受けていた際に、【老中・間部詮勝の暗殺】というテロ計画をうっかり漏らしてしまったのが処罰の原因です。
「参考人程度かと思ったら、とんでもないテロリストもいたものだ」というわけですね。
幕府がピンポイントで松陰を狙ったわけではありませんし、松陰の暗殺計画が本気だったかどうかも不明です。
ともかく幕府vs倒幕派という構図ではなく、あくまで【将軍後嗣問題の処理】だったということです。
話を村岡に戻します。
多くの処罰者が出た安政の大獄ですが、その中には女性8名も含まれていました。
うち6名は、処罰された者の妻子にあたります。
逆に言えば、女性でありながら本人自身の罪を問われた者が2名いるということです。それは誰か?
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