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【岩山糸(西郷糸子)】
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「逆賊」の妻の意地
明治維新の功労者夫人から、逆賊の夫人へ。
糸は転落しました。
それでも彼女は、夫の後を追うような真似はできません。残された家族を連れて、気丈に生き抜こうとしました。
西南戦争の翌年には、東京の親戚が多額の香典を持って来ました。糸が断っても、相手は無理矢理押しつけるようにして置いて行きます。
糸は使用人の熊吉を東京にやり、香典を相手に返しました。
「夫は亡くなり、子は廃人となり、家も家財道具も焼けてしまいました。お気遣いはありがたく思いますが、夫が生前に開墾した土地もあります。しばらく暮らしていくには、不自由はありません。また後日、何かあればご助力を願うこともあるかもしれません」
それは糸なりの意地なのでしょうか。
それとも、強がりではなく、本当に生活に困っていなかったのでしょうか。
糸はこの言葉通り、着実に生きてゆきます。
家塾を開き、迎えた教師には月給を支払いました。
前述の通り、愛加那への送金も滞ることなく続けました。
長男の寅太郎は、プロシヤに留学し、軍人として着実に出世しました。
愛加那の子である菊次郎も、京都市長にまで出世しております。
(ちなみに林真理子氏のドラマ原作『西郷どん』では、この菊次郎が西郷の思い出を語る――というスタンスで話が進みました)。
糸は、気丈に我が子を育て上げたのです。
明治29年(1896年)から、糸は東京で暮らしました。食べたい物はあるかと嫁に問われると「唐芋御飯」(サツマイモ入り御飯)と答え、出されるとうれしそうにほおばっていたそうです。
そして大正11年(1922年)6月11日、80才で永眠。
夫をよく支えた、妻の一生でした。
「こげなお人じゃなかったのに」
そんな糸の、最も有名な逸話は、上野公園の西郷隆盛の銅像に関するものです。
明治31年(1898年)12月。
糸は、義理の弟・西郷従道とともに、亡夫の銅像除幕式に参加していました。
ホントはすごい西郷従道(信吾)兄の隆盛に隠れがちな”小西郷”の実力に注目
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総勢800人が感慨深げに見つめる中、従通の長女・桜子が幕を取りました。
糸はその像を眺めて、こう漏らしたのです。
「ンだども、ンだとも、やどんし(うちの夫)はこげなお人じゃなかったのに……」
慌てた従道は、糸の脚を踏んで黙らせようとしました。
「こや、まさしゅ西郷さぁだ!」
「まこっに西郷さぁにそっくいなあ」
糸の言葉を打ち消すように、明治の元勲たちはそうフォロー。
しかし当の糸は、頑なに否定しました。
銅像の制作者のことは褒めつつも、太りすぎていると付け加えることも忘れませんでした。
結婚したころ、
「よかニセ(若者)じゃ(イケメンだわぁ)」
と、うっとりと夫を眺めていたという糸。恋するフィルターからすれば、あんなブサメンじゃない……そういう解釈もできそうです。
この糸の「銅像は夫に似ていない」発言には、諸説あります。
糸の発言諸説
1. 本当に似ていなかった(と、少なくとも糸には思えた)
2. 西郷の性格的に、浴衣のようなラフな格好で人前には出ない
3. 軍服ではない、髭がない
西郷の像がなぜ浴衣姿かというと、逆賊になったという事情があるようです。逆賊なのに、軍服姿はまずいと。
しかし糸にすれば、服装にうるさく、家の中でもきっちりとして、だらしのない服装をしなかった夫です。
それが、現代からすればTシャツに短パンのような服装にされてしまったわけですから、ガッカリ感は半端ないということなのでしょう。
糸の発言は、周囲にバッチリと聞こえてしまいました。「あの銅像は似ていないんだって」という話は全国に広まり、定着したわけです。
「こげなお人じゃなかったのに」
この糸の本音。
なんともよいですね。
明治元勲たちが気にする「事情」よりも、自分の中の夫の像を大切にする、糸の意地や愛情を感じさせます。
激動の時代を生きた西郷です。
夫婦の生活も、並の人とは違ったことでしょう。
それでも糸の言動からは、素朴で力強い、夫婦の愛情を感じることができるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【西郷隆盛の年表】
1827年 1才 鹿児島で生誕
1839年 13才 ケンカ仲裁で怪我を負って刀を握れなくなり、勉学に励む
1839年 13才 蛮社の獄で高野長英や渡辺崋山などが捕らえられる
1840年 14才 アヘン戦争始まる(2年後に終わる)
1841年 15才 天保の改革(水野忠邦)
1844年 18才 郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命される
1850年 24才 農政に関する建白書を提出
1850年 24才 お由羅騒動勃発・赤山靱負の切腹で号泣する
1851年 25才 ジョン万次郎が帰国
1853年 27才 家督を継ぐ
1853年 27才 ペリー来航(翌1854年に日米和親条約)
1854年 28才 島津斉彬のお庭方となり江戸へ・政界工作に携わる
1854年 28才 藤田東湖と出会う
1855年 29才 橋本左内と出会う
1857年 31才 篤姫と徳川家定が婚姻
1858年 32才 日米修好通商条約に調印(松平忠固が推し進めた)
1858年 32才 島津斉彬が急死
1858年 32才 安政の大獄で追われ、月照と共に入水・奄美大島で蟄居
1859年 33才 吉田松陰に死刑
1860年 34才 桜田門外の変
1862年 34才 和宮親子内親王が徳川家茂へ降嫁
1862年 36才 奄美大島から帰還
1862年 36才 寺田屋事件で薩摩の攘夷派が島津久光に粛清される
1862年 36才 島津久光の怒りを描い、今度は徳之島&沖永良部島へ
1862年 36才 生麦事件
1862年 36才 高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件
1863年 37才 新撰組の前進・壬生浪士が結成される
1863年 37才 長州藩が下関戦争(英・仏・蘭・米)
1863年 37才 薩摩藩が薩英戦争
1863年 37才 八月十八日の政変で長州藩を京都から追放
1864年 38才 再び赦されて、京都における薩摩藩責任者となる
1864年 38才 池田屋事件(長土藩の攘夷派が新撰組に討たれる)
1864年 38才 禁門の変で薩摩&会津が長州を京都から追放
1864年 38才 佐久間象山が暗殺される
1864年 38才 第一次長州征伐で長州はソク白旗
1866年 40才 西郷隆盛と木戸孝允、薩長同盟を結ぶ
1866年 40才 アーネスト・サトウが『英国策論』を執筆
1867年 41才 明治天皇が即位
1867年 41才 徳川昭武がパリ万博へ
1867年 41才 高杉晋作が結核で死亡1867年 41才 徳川慶喜が大政奉還に応じる
1867年 41才 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件)
1867年 41才 庄内藩が、薩摩のテロ行為に報復として江戸藩邸を焼き討ち
1868年 42才 鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争が始まる
1868年 42才 戊辰戦争の東征総督府参謀として指揮(江戸城無血開城)
1868年 42才 会津戦争・北越戦争・上野戦争・箱館戦争
1869年 43才 版籍奉還
1871年 45才 廃藩置県
1871年 45才 岩倉使節団が欧米へ・西郷らが留守を預かる
1873年 47才 征韓論を機に下野し、鹿児島へ
1874年 48才 鹿児島に私学校を設立
1874年 48才 佐賀の乱で江藤新平が死亡
1875年 49才 秩禄処分で士族の家禄等が剥奪される
1876年 50才 廃刀令により士族は帯刀の特権も奪われる
1876年 50才 神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
1877年 51才 西南戦争
【参考文献】
歴史人物研究会 (編集)『幕末明治 時代を変えた女たち』
ほか