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【西郷隆盛】
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小御所会議
もはや、なりふり構わず突き進むしかありません。
西郷は、長州に倒幕への決意を語ります。
薩摩藩内にも武力行使反対派がいました。
久光が反対派の筆頭なのですから、家臣に過ぎない西郷、大久保らが反対意見を押し通すのは異常なことです。
まさに背水の陣。
薩摩・長州ら倒幕勢力は12月、調停工作を行い「倒幕の密勅」を出させました。
さらには王政復古のクーデターを起こし、慶喜政治参画の野望を挫いて、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬の帰国を決定します。
王政復古によって制定された三職(総裁・議定・参与)が集った三職会議、いわゆる「小御所会議」にて、土佐の山内容堂は慶喜の招致を求めますが、薩摩側は断固として反対。慶喜に辞官納地を要求します。
会議は紛糾し、ついには山内容堂の主張が通り、慶喜が議定に就任して領地も返上しないことが決まりかけました。
焦ったのが西郷です。
前述の通り、薩摩でも藩内一致で倒幕を目指してはおりません。
あくまで少数派、西郷の周辺だけ。
長州藩を除く諸藩は、その強引なやり方に反発し、冷たい目線を向けていました。
このまま倒幕派がくじけたら、西郷の失脚は間違いありません。
もはや西郷の選択の余地は、ない。
そこで彼は武力の道を選びました。
西郷の密命を帯びた井牟田尚平・益満休之助ら薩摩藩浪士隊が、将軍不在で治安が悪化していた江戸および関東一円で暴れ回ったのです。
江戸でテロ「薩摩御用盗」
彼らの行動は現在の言葉で言うならばテロです。
強盗、放火、殺人、暴行。
しかも要人暗殺ではなく、警備の手薄な一般市民というソフトターゲットを狙った無差別殺傷でした。
現在の過激派組織は、世論の動揺や挑発のため、コンサートや駅で市民を巻き込む事件を起こします。幕末の京都で横行したターゲット狙いの暗殺より、こうしたテロに近いと言えます。
浪士隊の勢いは留まることを知らず、ついには天璋院がいる江戸城二の丸までも含めて、江戸城は三度も放火されるに至ります。
江戸の人々は彼らを「薩摩御用盗」と呼び、その悪行に震え上がりました。
警護担当の庄内藩・新徴組は当然ながら激怒。
薩摩藩邸で下手人の引き渡しを求めるうちに、藩邸は焼き討ちにしてしまいます(薩摩藩邸の焼討事件)。
確かに江戸城そのものは無血開城されたかもしれませんが、実際には多くの血が流れていたのです。
この知らせが大坂にいる幕府軍に届くと、風向きが変わりました。
幕府に藩邸を焼き討ちされた薩摩藩は怒り、武力行使もやむを得ないと考えを変更、西郷の望んでいた武力衝突の避けられない事態となるのです。
年明けて慶長4年(1868)1月、鳥羽伏見で新政府軍と幕府軍が激突!
数の上では幕府軍が勝るため、敗北することもありえると西郷は覚悟を固めていました。
しかし装備面で差がつき、勝利した新政府軍は「錦の御旗」を掲げて進軍。
この旗は即席と言っていいほど割と適当に作られたもので、正統性はどの程度あったか疑問はあります。
が、ともかく慶喜としては朝敵にだけはなりたくありません。
かくして慶喜らは、江戸を目指し上方から撤退。自ら謹慎し、恭順の意を示します。
静寛院宮(和宮)や天璋院も、慶喜の助命を嘆願しながら、西郷としては何としてでも切腹させたいと考えていました。
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今後もし、再び徳川が力を得たならば、能力の高い慶喜は必ず巻き返しをはかるに違いない――そうなったら危険だと考えていたのです。
そこに現れたのが勝海舟でした。
江戸城無血開城から突然の路線変更
勝に面会を求められた西郷は、これを受け入れました。
この時点で勝は、慶喜助命のための会談に全力で臨む一方、決裂した場合に備え、戦争の準備も整えていたのです。
が、その心配は杞憂に終わりました。
「江戸城無血開城」の実現です。
歴史において燦然と輝く偉業のように思えるこの決断は、実は新政府から不満も出ておりました。
まず西郷は、幕臣が軍艦や兵器を持って逃げ出すことを看過してしまいます。
新政府からすれば、西郷が勝相手に譲歩したように思えたのです。
また、西郷の気持ちひとつで慶喜の命すら決まるような強引なワンマンぶり、ころころと変わる決断は、周囲の人々に不信を招くことになりました。
そしてなぜだか西郷は、この無血開城を機に、徳川宗家の寛大な処分を望むようになります。
あれほど強硬路線を目指していたはずが突然の180度転換です。
現代の我々にとっても理解に苦しむ展開でしょう。いったい何があったのか……。
西郷は、江戸での彰義隊との上野戦争を指揮し、その後、出羽・米沢庄内へと転戦。
庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、激しい抵抗を示していました。そして力尽き、9月に降伏すると藩主以下厳しい処分を覚悟します。
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が、西郷の意を受けた黒田清隆は寛大な処分を下したのです。
減封は16万石から4万石の12万石。改易された会津藩とは対照的でした。
あれほど血を流すことを望んでいた西郷は、すっかり変貌していたのです。
庄内藩士はこのことから西郷の徳を慕い、明治22年(1889年)には西郷の言動をまとめた『西郷南洲遺勲』を出版するほど。
しかし、この西郷の変貌は新政府にとっては受け入れがたいものでした。
戦いを終えた西郷を待っていたのは、新政府首脳部からの冷たい目線。
久光や彼の強引さに苦々しい思いを抱いていた薩摩藩士からの敵意でした。
フィクション作品における彼の絶大なるカリスマイメージからは想像しにくいかもしれませんが、さほどに理解しがたい行動だったのでありましょう。
そして西郷は新たな人生へと踏み出そうとするのですが……。
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激怒する島津久光
望み通り幕府を倒し、戊辰戦争を起こし、勝利した西郷。
もはや斉彬の遺志は果たしたと、鹿児島に戻ると温泉で療養します。
役目を終えたという思いもありましたが、徳川側に厳しい態度を取る新政府についていけない部分もあったのです。
西郷は隠居するつもりではありました。
が、それは許されないことでした。
当時の薩摩藩は戊辰戦争から凱旋した兵たちが発言権を増しており、久光は苦々しい思いで彼らの台頭を見ていました。彼の不満を抑えるためにも、誰かが必要だったのです。
藩主・忠義や周囲の懇願を受け入れ、西郷は薩摩藩参政、明治3年(1870年)には鹿児島藩大参事に就任。
反感を買いながらも、それまでの圧倒的な彼の人望や政治力は発揮され、藩内の政治不安を抑えます。
ただし、久光の鬱憤はとどまることを知らず、その矛先は西郷に向かいます。
幕府にかわって日本を支配できる――そんな風に時代錯誤な思い込みをした久光が悪いと語られがちな場面ですが、そもそもは、久光の意向と関係なく推し進められた新政府の方針について、説明不十分だったのが原因ではないでしょうか。
薩摩藩はじめ新政府は、当初、攘夷を訴えておりながら、維新が成功したとなるや180度方向転換して西洋流を取り入れたわけです。
このままでは日本流が廃れて西洋に染まってしまう。
そんな危機を覚えたのは、何も久光一人のことではないでしょう。
さらに西郷の倒幕活動は、久光から反対されていたにも関わらず、慶喜の腹を切らせるべくクーデターを行い、テロを煽動したワケです。
独断専行と批判されても仕方のない一面があり、「家臣にないがしろにされた」と久光が怒りを抱くのも自然なことかもしれません。
そして、久光の不満は何ら解消されないまま、新政府は「版籍奉還・廃藩置県」へと邁進。
旧藩主の座は消えてなくなり、元藩士の大山綱良が権大参事(のちに県令)となるのでした。
久光は、もちろん激怒です。怒りのあまり、大規模な花火を打ち上げたと伝わるほど。
そして自らが県令の座に就くべく運動を開始するのですが、結局これも叶わずじまい。
一方の西郷は明治4年(1871年)、近衛都督・参議兼陸軍元帥に就き、軍部の頂点に立ちます。
久光の憎悪は強まるばかりでした。
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