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【西郷隆盛】
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一会桑政権
長州藩の台頭で政治力に翳りが生じ、焦り始めた久光は会津藩と手を組み、邪魔な長州藩を排除しようとします。
文久3年(1863年)8月18日。
孝明天皇の許可を得て御所の警備についた会津・薩摩藩の兵士たちは、長州藩と懇意の公家・三条実美らの参内を差し止めます。
そしてその後の朝議では、長州藩の京都からの退去が決定されました。
やっとの思いで長州を追い払い、久光としては発言力回復を期待したところでしょう。
しかし、この計画が脆くも崩れてしまいます。
一橋家慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の三名が主導する「一会桑政権」が、政局を握ることになったのです。長州藩を追い払ったと思ったら、今度は彼らに政治力を制限されてしまうのです。
慶喜らの政治力に敗北した久光としては、何としても失地回復をしたいところ。そうなると頼りになるのが西郷です。
元治元年(1864年)、沖永良部島の西郷のもとに赦免が届いたのでした。
再び上洛を決意した西郷。
避けては通れぬ久光の対面を、周囲は固唾を呑んで見守ります……。
が、西郷はかつての西郷ではなく、尊大な態度をすっかり改めておりました。
調整役として、小松清廉(小松帯刀)が二人の間に入ったのも、改善の要因だったのでしょう。
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一方、追放以来、怒りのおさまらない長州藩尊攘激派は、捲土重来を期しておりました。
薩摩藩と会津藩から京都を追われたと怒り心頭の彼らは「薩賊会奸」と履物に書き付け、憤怒をこめて踏みつけて歩いたとされています。
そしてついに長州藩士らが復権を狙い京都御所に進撃。
元治元年(1864年)、「禁門の変」が起こります。
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戦いの詳細は省略しますが、当初は静観していた薩摩藩が援軍に駆けつけると、長州藩は敗走します。
西郷もこの戦いに参加していました。
薩長同盟
「禁門の変」のあと、長州に対しては、征討の勅命が下されました。
参謀に命じられた西郷は「いざ長州を叩き潰すべし!」と意気込んでいましたが、そこで幕臣の勝海舟と出会います。
西郷は勝から思想的に大きな影響を受けました。
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「もう幕府には、政権を担う力なんざねぇ。ここで長州を叩き潰してもいいことは何一つねえんだ。そんなことやるよか、諸侯が力を合わせて外国に立ち向かうべきだろ」
そう言われた西郷は、考えを180度改めます。すっかり勝に惚れ込んでおりました。
長州征討は、いくつかの条件のもとに和睦となりました。
その中身は「三家老・四参謀の切腹」と「藩主と世子直筆謝罪状の提出」、さらには「山口城の破却」と、八月十八日の政変で追われた三条実美ら「五卿の引き渡し」でした。
処分が寛大過ぎないか?
そんな疑問の声があがる中、征長軍は解散します。
しかし混乱に追い込まれた長州藩では、その後、奇兵隊で知られる高杉晋作らが穏健な「俗論派」を倒し、主導権を握ります。
過激な彼らが主流となれば再び火を噴きかねない。
こうした動きを見た幕府は、再び長州征討を企画。一度は矛を収めた薩摩藩は、幕府の決定に不服を覚えました。
この頃、西郷とは旧知の仲でもある土佐藩士の坂本龍馬らが薩摩と長州の提携に乗り出すのです。
そうです。
幕末では最大の出来事の一つである「薩長同盟」が結ばれ、後に統幕路線へ舵が切られるのでした。
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しかし、この倒幕路線とは、あくまで西郷らの目指す方向です。
久光はむしろ警戒感を持っておりました。
武力行使を辞さない西郷と、強硬路線に反発する久光。やはりこの二人の対決が、禍根を残します。
というより、西郷が結んだ薩長同盟の目的も、倒幕そのものではありません。
朝敵と認定された長州藩の立場を救うことが第一であり、そのためには孝明天皇および朝廷から深い信任を得ることが必要でした。
同時に、政治の実権を握る「一会桑政権」(慶喜・容保・定敬)の打倒も視野に入っており、「慶喜打倒イコール倒幕」を当初から目指していたわけではないのです。
武力倒幕へ
長州と手を結んだ薩摩は、かつて敵だったイギリスとも急接近。
イギリスでは薩摩藩の留学生を受け入れ、薩摩側も入港したイギリス艦を歓待しておりました。
英国艦隊をぶっ潰してやろう……という実力行使で手痛い失敗を受けた薩摩藩では、政策を180度転換し、彼らの援助を受けていたのです
一方の幕府はフランス寄りです。
欧州での英仏対立の構造が、日本を舞台にしても展開されていたのですね。
裏で長州と同盟を結んでいる薩摩は、幕府の長州征討に対し、一向に重い腰を上げません。
と、そうこうするうちに将軍の徳川家茂、一会桑政権の後ろ盾であった孝明天皇が立て続けに亡くなります。
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これで幕府側が窮地に……と思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。
家茂のあとに将軍となった慶喜の政治手腕は鋭く、薩摩が提案した長州処分の「寛典案」を取り下げる等、薩摩の面目を潰すこともしばしばありました。
また、薩摩藩は幕末の動乱の中で武力行使をし過ぎました。
財政は軍事費で逼迫。その責任を問う目は、西郷にも向けられます。
そんな状況下で、このまま慶喜を頂点とした幕府、政体が存在したらば、西郷は失脚を免れません。
西郷は決断を下します。
「ならば倒幕だ! 慶喜を将軍職から引きずり下ろし、朝廷で開かれる諸侯会議での政治を目指す!」
グレート・リセット路線へ舵を切り、政治主導権を握る――。
それが西郷の出した結論であり、タイミングのよいことに、久光が病のため京都から薩摩へ帰国。
ブレーキ役が不在となったことで、西郷の独走的な行動に歯止めが利かなくなりました。
彼ら薩摩藩は、武力による倒幕を目指して突き進むのです。
大政奉還
こうした薩摩の強硬路線に歯止めをかけようとしていたのは土佐藩でした。
ソフトランディング路線での政権交替を目指す土佐藩の後藤象二郎は、大政奉還・王政復古・議会政治を条件とした政権交代案を提唱。薩摩藩と土佐藩の間に薩土盟約が締結されます。
武力征圧をしたい薩摩と、あくまで穏当な方法で政権交代を目指す土佐では方向性が違います。
それでもなぜ、薩摩は土佐と手を結んだか。
西郷は、慶喜がそうあっさり将軍職を返上するとは思っていませんでした。
「もし慶喜が将軍職返上を拒んだら、それをきっかけに戦争を起こす」
それが真の狙いだったのです。
武力討伐を目指す薩摩藩と長州藩は、慶長3年(1867年)10月、倒幕の密勅を取り付けました。
一方で土佐藩は大政奉還を求める建白書を提出します。
傑物と言われ、かつて島津斉彬も将軍に就けようとした徳川慶喜は、この土佐発のソフトランディング案に乗り、あっさりと大政奉還を認め将軍の辞表を出します。
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慶喜としては、たとえ将軍の座を明け渡したところで、政権を担える諸侯などおるまい、という計算もありました。
この見通しは正しかったと言えます。
「あっさりと将軍の座を捨てるなんて、たいしたもんだなあ。悔い改めて返上したからには、もう罪はないだろう。新政権にも是非迎えるべきだ」
慶喜の決断は世間から好評を得て、久光はじめ薩摩藩内にすらこんな風に歓迎する者が多かったのです。
どうにも狡猾に描かれがちな慶喜ですが、人間的には洗練されて魅力に溢れていた人物です。
国内からも、また日本に滞在する外国勢力からも「慶喜に厳しい処分を下してはならない」という声があがっていました。
しかし、それは断固として武力討伐を目指す西郷にとっては受け入れられないことです。
将軍の座にしがみついた慶喜を、力づくで引き離して戦争を起こすもくろみは頓挫。
徳川の広大な領地と財産も、諦めるにはあまりに魅力がありました。
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