西郷隆盛

キヨッソーネ作による西郷隆盛の肖像画/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷隆盛~幕末維新の時代を最も動かした男~誕生から西南戦争まで49年の生涯とは

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月照と入水

井伊直弼による弾圧の手は、京都清水寺成就院の僧・月照にも迫りました。

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月照は、将軍継嗣問題における朝廷工作の過程で西郷と親しくしていた者。そこで京都の近衛家から保護を依頼され、薩摩まで連れてゆくことにしたのです。

しかし、実際のところ薩摩藩では、月照の取扱を持て余しておりました。

斉彬が生きていた頃ならいざ知らず、幕府に睨まれている人物を匿っていても百害あって一利なし。

そこで同藩は、西郷に「日向送り」を命じるのです。

離れの地で匿っておけ。ということではありません。

「藩境まで来たところで斬り捨てよ」という、実質的には死刑でした。

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西郷は、この決定に背くことはできません。

しかし、ここで旧知の月照を殺しては、保護を依頼されておきながらそれを破ることにもなる。

何よりも月照という男を殺すなどできはしない。彼に残された道は……。

せめて一人で死なせはしない――。

かくして西郷は日向へ向かう途中、月照と共に鹿児島湾へ身を投げます。

月照と西郷、水死。藩にはそう届けられました。

しかし、月照はそのまま水死し、西郷は一命を取り留めていたのでした。

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奄美大島へ

藩命に背き、死んだことになった西郷は菊池源吾と名を変え、奄美大島の龍郷(たつごう)に潜伏します。

その間、懇意の橋本左内や、将軍継嗣問題に関わった薩摩藩士らが処罰されたことを知り、一日も早い帰郷を望みました。

藩からの僅かな扶持米で生きながらえる日々は、決して幸福とは言えません。

薩摩藩一の俊英政治家であった西郷からすれば、鬱屈の日々であったことでしょう。

声をあげながら木刀を振り回し、大木相手に相撲を取っていた西郷は近所の人から

「大和のフリムン(狂人)」

と呼ばれ、気味悪がられていました。

さらにはストレスから過食気味となったのでしょう。

この頃から急激に体格も大きくなってゆきます。

それまでは背が高くほっそりとしていたのが、上野公園の銅像のようなガッチリ型になったのです。

雨期に到着した西郷は悪天候に閉口し、風習の異なる現地の人々を「けとう」と呼び、なかなかなじめませんでした。

ただし、現地女性の美しさには喜んでいたとか。

しばらくすると暮らしに馴染み、住民に学問を教えるようになりました。すると周囲も「島妻(アンゴ)」を持たせようと考え始めます。

現代で言うところの「現地妻」であり、薩摩に連れ帰ることはできませんが、生まれた子は薩摩で教育を受けることができます。

島妻には扶持米もあるため、なりたがる者、娘を志願させる家もありました。

かくして愛加那(あいかな)という名の島妻を娶り、二子を生ませた西郷。

奄美の暮らしに慣れ始めるのですが、故郷の薩摩藩と日本の政局は絶えず大きく動いておりました。

いよいよ西郷の存在が必要不可欠だと判断した藩は、文久元年(1861年)11月、彼を奄美から呼び戻します。

 


寺田屋事件

このころ藩の実権を握っていたのは、お由羅の子・久光でした。

西郷主役の作品では暗君扱いされがちな久光は、そもそも二人の背景に険悪な関係があるわけで、その点を考慮せねばならないでしょう。

久光の野心は、薩摩藩の武力をもって幕府に公武合体を迫ることでした。

西郷が奄美にいた安政7年(1860年)、「桜田門外の変」で井伊直弼が凶刃に斃れ、幕府の権威は揺らいでいる最中。

この状況ならば兄のように政治力を発揮できるはずだと久光は考え、出府上京準備の一環として西郷を呼び出したのです。

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しかし、西郷にとっての久光は、斉彬とは異なる不出来な人物です。

実質的に権力を握っているとはいえ、藩主ですらなく、あくまで藩主の父。しかも無位無冠。

斉彬とは違って江戸暮らしの経験もなければ、政局での知名度もなく、まさに「ないない尽くし」でした。

西郷は、久光の野心に反対します。

斉彬のもとで政治工作の腕を磨いた彼からすれば、久光の意見なんて素人臭く相手にするのもばかばかしいものでした。

島に潜伏していた三年のブランクを埋めるため、自らの力量を見せ付けたかった場面でもありましょう。

そこで久光の野心に対し、こんな暴言を吐いてしまいます。

「御前(久光)は地ゴロ(田舎者)で、事情に暗いから無理でしょう」

せっかく奄美から呼び出したのに、恩義も知らないような態度。久光がそう西郷に激怒したとしても無理のないところでしょう。

二人の不幸な関係の再開です。

島津久光/wikipediaより引用

西郷に辛辣な言葉を浴びせられても上京を諦めきれない久光は、予定より遅れながら京都に入り、これを見た攘夷志士たちは「今こそ挙兵の好機!」と沸き立ちます。

彼らは京都・大坂に集結。周囲は、にわかに騒然となりました。

西郷はこのとき下関待機組でした。

が、こうした情勢を見て急ぎ上京を試みました。

一方、この命令違反に激怒した久光は、西郷の捕縛命令を出し、薩摩へ送り返します。

ちなみに京都の寺田屋に終結した攘夷派らが、説得側と乱闘になった「寺田屋事件」もこの時勃発しておりました。

もしも西郷が京都にいたら未来はどうなっていたか。

そんなことを考える余裕すらなく薩摩へ送り返された西郷は再び流刑となり、徳之島から沖永良部島に流されたのでした。

島津久光にスポットを当てた記事は以下をご参照いただければ幸いです

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生麦事件

文久2年(1862年)、西郷らを処罰した久光は、政局での発言力を順調に増していました。

そんな折、衝撃的な事件が発生します。

薩摩藩の行列が武蔵国生麦村を通過中、乗馬したイギリス人4人が横切ったのです。

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英国人の非礼に激怒した薩摩藩士はこの一行を殺傷し、事態は急激に悪化します。

文久3年(1863年)、犯人の処刑および賠償金支払いを求めたイギリス艦隊が薩摩に襲来し、薩英戦争が勃発したのです。

この戦いで双方は手痛い損害を出し、薩摩側も攘夷の無謀さを痛感させられました。

和平交渉がまとまると、イギリス側も態度を軟化させ、薩摩側に接近します。

薩摩藩も態度をあらため、こののち薩摩藩遣英使節団として五代友厚らを派遣。

攘夷とは異なる新たなる道を模索することになるのでした。

久光不在となった京都では、政局も新たな変動の時を迎えていました。

穏健派を抑え込んだ長州藩が、過激な攘夷を唱えるようになったのです。

彼ら長州藩尊攘激派は京都に志士を送り込み、公家を抱き込むと朝廷を操るようになりました。

そして暗殺と天誅が横行。

京都守護職・会津藩と、その配下の新選組が治安維持のために武力で抑え込むという、血の嵐が吹き荒れていたのです。

不在の薩摩に代わり、攘夷派公家を買収して台頭した長州藩。

この時期はまさにイケイケで、下関砲台からアメリカ船を砲撃する等して、攘夷へのやる気をアピールします。

もちろん諸藩は黙っているわけにはいきません。

久光、徳川慶喜らの有力諸侯が続々と上洛し、土佐藩も朝廷工作を画策しました。

同時に、荒れた治安を回復させるため、京都守護職として松平容保率いる会津藩士が上洛します。

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容保は政治的な謀略を駆使するタイプではありませんでした。その誠実さがかえって孝明天皇に気に入られ、寵愛を受けるようになり、諸藩の嫉妬や反発を集めてしまいます。

幕末の政局というのはドロドロした「妬み嫉み」もあり、英雄がスカっと豪快にコトを運べたワケではないのですね。

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