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【安政の大地震(安政江戸地震)】
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幕末パンデミック「コレラと麻疹」
しかも当時は伝染病まで流行しました。
コレラです。
その世界的流行は1817年のインドから始まったとされており、5年後の1822年(文政5年)には、日本でも感染が発生。
日本国内でのパンデミック(大流行)は1856年からですので、地震の翌年ですね。
江戸では当初の1ヶ月で約12,000人もの人が亡くなり、文久元年(1861年)までの4年間で死者は10万人を超えました。大坂では、死者3万人超と推定されています。
当時の人々は、まじないのような民間療法に頼らざるを得ない状況に陥り、蘭学主体の緒方洪庵「大阪適塾」では、『虎狼痢治準』とか『家塾虎狼痢治則』といった治療マニュアルまで刊行されました。
ちなみに第13代将軍・徳川家定や、薩摩藩の名君・島津斉彬の死因も、コレラであるという説があります。
不幸は続きます。
コレラの大流行が一段落した文久2年(1862年)、今度は麻疹が大流行するのです。
麻疹は20~30年周期で流行を繰り返しており、その周期に当たったワケですね。これまた江戸だけでも12,000人が死亡したとされています。
今度は将軍になったばかりの第14代将軍・徳川家茂(徳川慶福)、その妻である和宮も罹患しました。
ちなみに、同時期に予防手段が確立した病気もあります。
「天然痘」です。
イギリスの医師・ジェンナーの牛痘による予防接種発見が1796年のこと。その方法が、嘉永2年(1849年)には日本に伝わっていました。
安政5年(1858年)には、江戸と大阪に種痘施設ができていました。地方でも、開明的な人物は種痘の有効性を認めていました。
たとえば、会津藩家老・山川重英(山川浩・山川健次郎の祖父)。
彼は、種痘の有効性を確信しており、孫娘にも接種させていました。
そこで藩の上層部にも勧めたのですが、御殿医らの反対に阻まれてしまいます。
後に松平容保の正室・敏姫が天然痘で亡くなると、
「だから言ったべした。種痘さえしておけば、死なせねえで済んだものを……」
と、後悔していたと言います。
瓦版、草莽崛起、世直し一揆、ええじゃないか
幕末に襲いかかった天災とパンデミック。
それは以前からジワジワと苦しく疲弊していた人々の生活に、最後の一撃が加えられたようなものです。
同時に外国からの脅威もやってきておりました。
黒船来航以来、攘夷事件がたびたび起き、そしてそのたびに幕府は大変な賠償金を請求されるわけです。
疲弊してきた幕府のシステムは、ついに限界点を迎えました。
どこかでシステムそのものをリセットしなければ、もはやこの国は立ちゆかない――多くの人々がそう考えたのは自然の流れだったのでしょう。
幕府を残してリニューアルするか。
あるいは幕府を壊して別のシステムを作るか。
違いはありましたが、このままこの国を保っていくことは不可能であるという点では、一致していたわけです。
さらに、江戸時代も後期となると、出版が発達し識字率が向上していました。
現代を生きる私たちも、インターネットやテレビで災害ニュースを見ると不安になるものです。
当時の人々も同じ。瓦版で地方の災害ニュースを読み不安になる――そんなメディアの発達が人々の世直し願望をさらに強めました。
それまでの時代にはなかった、ニュースとフェイクニュース、風刺画、それによって形成される人々の声……。
いわゆる世論が形成されていったのです。
実際、武士階層以外の庶民も、彼らなりのやり方で時代を変えたいと考えるようになりました。
例えば豪農の子として生まれながら、私財をなげうち、尊皇攘夷運動に身を投じた相楽総三。
豪農の妻としてつつましやかに生きてたものの、50を過ぎてから勤王の歌人として生きた松尾多勢子。
あるいは歴史に全く名を残していない庶民。
彼らも「世直し一揆」や「ええじゃないか」によって、エネルギーを放出させました。
「ええじゃないか」とは、天から降る御札が吉兆であるとして、人々が踊り狂ったムーブメントです。
御札が投げ込まれた家は、人々に酒や食事を振る舞わねばなりません。
そのため、たいていは金持ちの家に御札が投げ込まれました。
貴族や聖職者の財産を没収する――フランス革命のように過激ではないものの、庶民によるささやかな逆襲と言えるかもしれません。
「ええじゃないか」が起こった慶応3年(1867年)、王政復古が起こります。
そこで政治主導のホンモノの世直しが始まるワケです。
庶民の権利を求め、政治を改革しようという流れは、後の自由民権運動へと受け継がれていったのでした。
そもそも時代が大きく捻れ始めた頃でもあり
幕末の動乱は、黒船来航をはじめとする外圧で起こったとされています。
それでは、もしも外圧がなければ、江戸幕府はまだまだ続いていたのでしょうか?
答えは難しいところです。
・慢性的なシステムの疲弊
・相次ぐ災害
・パンデミック
・瓦版、風刺画等のメディア発達による庶民の意識変化
こうした要素で、江戸幕府の屋台骨はゆらぎ、人々は世直しを求めていました。
幕末というのは、そうしてたまっていたマグマが吹き出した時代とも言えるのでしょう。
近世から近代へ――。
まさに大河ドラマ『青天を衝け』の主役・渋沢栄一が活躍した時代。
日本史の区分的にもダイナミックな区切りは、為政者たちの政治や外交だけでなく天災や庶民の動向など、非常に複合的な要素がからみあって起きたのですね。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『国史大辞典』
倉地克直『江戸の災害史』(→amazon)