江戸城/wikipediaより引用

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江戸時代265年をスッキリ解説 家康から幕末までを一気に読もう

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②家綱~家継時代(安定期)

家光は大御所(将軍からの隠居)になる前に亡くなりました。
嫡男・家綱はまだ幼く、四代将軍になるまでに紆余曲折を経ることになります。

その間に親戚の松平定政が勝手に出家したり、「幼君なんてあっという間にひっくり返せるぜwww」(超訳)とナメてかかってきた由比正雪が乱を起こしたり、のっけから不穏な空気の連続です。

家康の甥っ子・松平定政が狂気の沙汰「ボクは領地を要りましぇ~ん!」

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そもそも計画が杜撰過ぎ!だから由比正雪の乱は失敗した

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しかし、この頃の幕府は、すでに体制ガッチリ。
家綱の叔父である保科正之など優秀な幕閣がいたおかげで、危機を脱することができました。

それに安心しすぎたのでしょうか。
家綱は成長してもなかなか政治には興味を持たなかったのですが……まあ、それあヤル気のある方に担ってもらったほうがいいすね。

代わって力を得たのが「下馬将軍」と呼ばれる老中・酒井忠清です。

しかし穏やか過ぎる家綱には問題がありました。
子作りにも熱が入らず、このとき早くも将軍後継者問題が持ち上がります。というか家綱以降はその手の問題がないほうが珍しいくらいです。

徳川家継/wikipediaより引用

なぜ、そんなことになってしまったのか?

家光以降の将軍は江戸城からほとんど出ることがありません。

食事は、験担ぎのため季節外れ(=栄養のあまりない)の食材が中心。
かつ調理場から遠い食事所や、毒味のため冷めきった料理など、どうしても不健康な生活習慣に陥りがちな環境です。

将軍家だけでなく、大名全体の問題になりつつあり、そのせいか「後継ぎがいないせいでお家騒動」というケースも増えていきます。

そこで緩和されたのが末期養子でした。
大名が亡くなる直前に迎え入れる養子のことで、以前は禁止されていたものです。

「大名なら後継ぎをちゃんともうけておくべきだ! 子供に恵まれないなら事前に養子を迎えておけ!」
そんな考え方が強かったんですね。

しかし、当の将軍に子供がいなけりゃ、そりゃあねぇ。
根性論だけでは通じません。

また、幕府が安定したことによって、大名を”存続させる”ことも重要になってきたのです。
反抗の疑いがある大名を改易しまくっていたので、どこかの大名が断絶した場合、代わりを用意するのが難しくなっていたんですね。

また、しょっちゅう領主が替わると領民が懐かず、どんどん統治が難しくなるという点も悩みのタネでした。

例えば山形藩では、戦国時代からの主である最上家(最上義光)が善政を敷いたため、お家騒動によって改易された後も義光を慕う者が多く、その後の領主がなかなか定着できませんでした。
そこに政治的な理由で領主がコロコロ変わり続けて、幕末に至っています。

今でも山形=最上義光のイメージが強く、江戸時代の他の領主の影が薄いのはそういう理由です。

山形藩の他の藩主で有名なのは、保科正之くらいでしょうか。
それも7年くらいの短いものでしたし。

有能だった前半の綱吉

家綱の次の将軍については、鎌倉時代の例にならい、
「皇族から迎えよう」
という意見もありました。

しかし、その後のオチを考えると不吉すぎること、実子はいなくても実弟はいたことから、
「皇族に頼るより、弟君に将軍をやっていただけばいいじゃないか」
という意見が優勢となります。

家綱の弟が、“犬公方”こと五代将軍・徳川綱吉でした。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

というか家綱と綱吉、そして後述する六代将軍・家宣の父である綱重は、それぞれ異母兄弟です。
兄弟間のエピソードを聞かないので、幼い頃からあまり付き合いはなかったのかもしれませんが。

さて、その五代将軍・綱吉。
前半と後半で評価が大きく異なります。

綱吉は異母兄である家綱とは真逆で、自分の考えをハッキリ表す人だったからだと思われます。

その証左となるのが、家綱の時代に一度決着していた越後騒動の裁判やり直しです。

子供じみた跡目争いの越後騒動~最後は綱吉も絡んで切腹&改易メチャクチャだ

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詳しくは関連記事をご覧いただくとして、簡潔にオチだけを述べますと
「綱吉自らが判決を下す親裁で、前の判決を完全にひっくり返した」
というものでした。

綱吉は儒学に深く傾倒し、皇室と朝廷を尊び、信賞必罰を明確にすることを柱としていたのです。

幕府のお偉いさんである大目付・目付・三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)を直接任じたり。
大老・酒井忠清を罷免して堀田正俊を据えたり。

はたまた財政・民政を預かる「勝手掛老中」に任じるなど、「俺は兄上とは違うぞ」ということを行動で示しました。

また、就任から間もなく、現代の公務員でいえば服務規程にあたる掟を出し、直接徴税を行う代官の素行を調べ、よろしくない者には厳罰を与えています。

武士は食わねど高楊枝

幕府の財政難については、幕末によく取りざたされます。

これ、実は家綱時代から江傾き始めていました。
別に家綱が浪費したわけではなく、日光社参の費用や、明暦三年(1657年)に起きた明暦の大火の被害に対する復興費用、それに伴う貨幣の鋳造などで、大金を使わざるを得なかったのです。

また、貨幣経済が進んでお金での支払いが増えたことにより、米の価値が相対的に下がってしまいました。

武士は基本的に米でモノを買っていましたが、だんだん市場のほうが
「米じゃなくてお金で払ってくださいよ」
というようになったのです。

そのため一度米を売ってお金を用意し、それから買い物をするプロセスが必要になってきたのです。

米を売ってもさほど高額にはなりません。
つまり、武士はどんどん貧乏になっていくしかない。

それでなくても、武士には伝統的に
「金は卑しいもの」
という価値観があります。

伊達政宗から「ウチの大判(金貨)を直接手にとって見て良いのだぞ」と上杉家家臣・直江兼続に言った時、「私の手は采配を握るための大切なものなので、このような汚らわしいものを触るわけにはいきません^^^^」(超訳)と返答された……なんて話は、その代表例でしょう。

「武士は食わねど高楊枝」なんて狂歌があったくらいですから、その気風は大きい。
ただ、この状態で飢饉が起きでもすれば、そりゃもう悲惨なわけで……。

綱吉も当然、これらの財政難や武士の懐事情悪化に歯止めをかけるため、数々の施策を行います。

世の中の気風を質素倹約に持っいてくため、華美な衣服や初物取引を制限する法律を発令。
綱吉自身も贅沢な趣味はありません。

若い頃から
「代官は自ら仕事に励み、下へ示しを付けなければならない」
というようなタイプだったので、もともと謹厳な人なのでしょう。

唯一の楽しみは、能です。
それでも役者を買い漁るようなことはなく、自分で舞ったり大名に舞わせたりするほうが好きだったそうで、将軍としてはリーズナブルな趣味ですね。

というか、そもそも徳川将軍には贅沢好みな人はいないです。
側室と子供がめっちゃ多かった人はいますけど。

しかし、綱吉の厳格ぶりが悪い方向にブッちぎってしまったのが、かの悪名高い「生類憐れみの令」。
数度に渡って発布された法律をまとめてそう呼びます。

なぜ、そんなものが数回にもわたって出されたのか?

「綱吉が息子に恵まれず(いたけど夭折した)、僧侶に対策を訪ねたところ、『貴方様は戌年のお生まれなので、犬を大事になさいませ』と言われたから」
なんて話だとされています。

これは、武力で国を治める【武断政治】から、政治や法律で国を治める【文治政治】への転換にもなりました。

元禄赤穂事件と天災続く

綱吉の後半生に起きた元禄赤穂事件は、文治政治の象徴ともいえる事件です。

事件そのものはこんな感じ。

・赤穂藩主の浅野内匠頭長矩
・高家(礼儀作法担当)の吉良上野介義央に江戸城内で切りかかり切腹
・浅野家は改易
・武家の慣習である”喧嘩両成敗”でなかったことに腹を立てた元赤穂藩の藩士=赤穂浪士たち
・『主の仇を取って公正にすべき』
・吉良上野介の家に討ち入りして、目的を果たす

法を尊び、暴力を嫌う綱吉にとって、この事件は全く許せないことでした。

しかも浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に切りかかった日が悪かった。
朝廷からの使者を江戸城でもてなす儀式の日程中だったのです。

もともと朝廷を重んじている綱吉にとっては、「法律違反・暴力沙汰・朝廷絡み」という、スリーアウトチェンジものだったわけです。
チェンジしたのは赤穂藩主の首(物理)でしたが……。

また、綱吉の後半生には地震や火事、飢饉などが頻発したことも、暗君呼ばわりされた一因かと思われます。
当時はこういった天災を「為政者がダメだから、天が罰を与えているのだ」とみなしていたからです。

進む経済圏の拡大&活性化

家綱~綱吉の時期は、江戸が世界有数の大都市になった時期でもありました。

江戸~大坂間の航路(西廻航路・東廻航路)を開通。
菱垣廻船(生活用品全般)や樽廻船(主に酒類)が活発に行き交うようになりました。

江戸と大坂までノンストップで航行するわけではないので、その間で立ち寄る各地の港でも人や物が出入りし、経済が活性化します。

こうなると大事になってくるのが共通した“基準”です。

商人たちは各所の商品相場を記録しつつ、より効率化するため度量衡に使う枡の大きさや錘(おもり)、反物の長さや幅などの統一が図られました。

また、寛永通宝の大量鋳造に伴い、幕府は、古銭との混合使用を禁じるようになりました。
室町時代以前は世情が安定せず、このような経済的統一も不可能でしたが、江戸時代になって幕府が安定し、ようやく可能になったといえます。

これも中世→近世での大きな違いですね。

また、農地開発も活発に行われました。

・税金を増やすため
・人口増加への対策

そんな観点から次々に開発されていったのですが、やりすぎてしまい、寛文六年(1666年)には乱開発の禁止と荒廃地の植林が幕府から言い渡されています。
綱吉の時代である元禄期(1688年~1704年)には、多くの農業書も出され、効率の良さも追求されました。

いずれも1640年~1643年に起きた【寛永の大飢饉】を踏まえてのことかもしれません。
ただ、さほど効果はありませんでしたが……。

他に綱吉の後半生にあたる時期のポイントとしては、
【元禄文化】
というところも大事ですね。

社会がうまく行ってないのに文化が発展する――なんだか珍妙な感じがしますが、心理学で言うところの「昇華」かもしれません。
昇華とは、ストレスを芸術や学問等への熱中に向けることを指します。というのも、後述する【化政文化】も似たような世情でしたので。

徳川家宣【閑院宮家】の創立

綱吉には息子がいましたが夭折し、やはり後継者問題が持ち上がりました。

このときは綱吉の甥で甲府宰相と呼ばれていた家宣(当時は綱豊)と、紀州藩主かつ綱吉の娘婿・綱教(つなのり)が候補に挙げられます。
最終的には、血筋の近さと実績から、六代将軍は徳川家宣となりました。

徳川家宣/wikipediaより引用

家宣は将軍継承後、生類憐れみの令を即座に廃止。
綱吉の側用人として権力を持っていた柳沢吉保を退け、同じような立ち位置に間部詮房新井白石を就けました。

傾く一方の財政に対し、改鋳や倹約令の発布などを精力的に行っていきますが、効果が上がり切る前に家宣自身が亡くなってしまっています。

家宣のやったことの中で、見逃せない功績としては、宝永七年(1710年)の【閑院宮家】の創立です。

東山天皇の第七皇子・秀宮が直仁親王として創始。
直仁親王の子・祐宮が光格天皇として即位して以来、現在の皇室にまで続いています。

これは、家宣の正室が近衛煕子であり、その実家である近衛家の後押しもあったからだと思われます。
宮家創設にあたっては、幕府からも費用の一部が献上されました。

綱吉の時代に朝幕関係が良好に向かっていたので、家宣もそこを引き継ごうとしたのでしょう。

続く七代・徳川家継は幼くして将軍となり、生来の病弱さも相まって、顔なじみで父親代わりだった間部詮房の専横がますます著しくなりました。

また、家宣の側室で家継生母である月光院 vs 家宣の正室・天英院(近衛煕子)の対立、そして将軍墓所への代参にかこつけて不純異性交遊(婉曲表現)に走る女中が多々いた事などから、大奥の代表格だった御年寄・絵島のスキャンダルに始まる絵島・生島事件が発生。絵島は流罪となりました。
絵島の性格や後ろ盾がない出自からして、絵島本人が男遊びをしていたとは考えにくい……それでも重役が一人クビになると、だいたいのことは収まりますので。

片腕だった絵島を失って、月光院の政治的権力はほぼゼロになり、天英院が名実ともに大奥の主の座を取り戻しました。

次の将軍が「暴れん坊将軍」でお馴染みの吉宗なのですけれども、彼を将軍に推したのは天英院なのか、月光院なのかはっきりしていません。
この二人、絵島・生島事件からしばらくして和解していたらしいので、余計わかりにくくなっています。
まぁ、そもそも吉宗が将軍になるまでの経緯がきな臭すぎて……。

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