江戸時代

左から慶喜・家康・吉宗/wikipediaより引用

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江戸時代265年を一気に読む! 家康から幕末までをスッキリ解説

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武士は食わねど高楊枝

幕府の財政難については、幕末によく取りざたされます。

これ、実は家綱時代から江傾き始めていました。

別に家綱が浪費したわけではなく、日光社参の費用や、明暦三年(1657年)に起きた【明暦の大火】の被害に対する復興費用、それに伴う貨幣の鋳造などで、大金を使わざるを得なかったのです。

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また、貨幣経済が進んでお金での支払いが増えたことにより、米の価値が相対的に下がってしまいました。

武士は基本的に米でモノを買っていましたが、だんだん市場のほうが

「米じゃなくてお金で払ってくださいよ」

というようになったのです。

そのため一度米を売ってお金を用意し、それから買い物をするプロセスが必要になってきたのです。

米を売ってもさほど高額にはなりません。つまり、武士はどんどん貧乏になっていくしかない。

それでなくても、武士には伝統的に「金は卑しいもの」という価値観があります。

伊達政宗から「ウチの大判(金貨)を直接手にとって見て良いのだぞ」と上杉家家臣・直江兼続に言った時、「私の手は采配を握るための大切なものなので、このような汚らわしいものを触るわけにはいきません^^^^」(超訳)と返答された……なんて話は、その代表例でしょう。

「武士は食わねど高楊枝」なんて狂歌があったくらいですから、その気風は大きい。

ただ、この状態で飢饉が起きでもすれば、そりゃもう悲惨なわけで……。

綱吉も当然、これらの財政難や武士の懐事情悪化に歯止めをかけるため、数々の施策を行います。

世の中の気風を質素倹約に持っいてくため、華美な衣服や初物取引を制限する法律を発令。

綱吉自身も贅沢な趣味はありません。

若い頃から「代官は自ら仕事に励み、下へ示しを付けなければならない」というようなタイプだったので、もともと謹厳な人なのでしょう。

唯一の楽しみは、能です。

それでも役者を買い漁るようなことはなく、自分で舞ったり大名に舞わせたりするほうが好きだったそうで、将軍としてはリーズナブルな趣味ですね。

というか、そもそも徳川将軍には贅沢好みな人はいないです。側室と子供がめっちゃ多かった人はいますけど。

しかし、綱吉の厳格ぶりが悪い方向にブッちぎってしまったのが、かの悪名高い【生類憐れみの令】ですね。

数度に渡って発布された法律をまとめてそう呼びます。

なぜ、数回にもわたって出されたのか?

「綱吉が息子に恵まれず(いたけど夭折した)、僧侶に対策を訪ねたところ、『貴方様は戌年のお生まれなので、犬を大事になさいませ』と言われたから」なんて話だとされています。

これは、武力で国を治める【武断政治】から、政治や法律で国を治める【文治政治】への転換にもなりました。

最近では「悪いとは言い切れない」という見方もありますね。

生類憐れみの令をキッカケに「命を大切にする」という考え方をジワジワと浸透させたのです。

つまり、それ以前は命がかなり粗末に扱われていたんですね。

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元禄赤穂事件と天災続く

綱吉の後半生に起きた元禄赤穂事件は、文治政治の象徴ともいえる事件です。

事件そのものはこんな感じ。

・赤穂藩主の浅野内匠頭長矩

・高家(礼儀作法担当)の吉良上野介義央に江戸城内で切りかかり切腹

・浅野家は改易

・武家の慣習である”喧嘩両成敗”でなかったことに腹を立てた元赤穂藩の藩士=赤穂浪士たち

・『主の仇を取って公正にすべき』

・吉良上野介の家に討ち入りして、目的を果たす

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法を尊び、暴力を嫌う綱吉にとって、この事件は全く許せないことでした。

しかも浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に切りかかった日が悪かった。朝廷からの使者を江戸城でもてなす儀式の日程中だったのです。

もともと朝廷を重んじている綱吉にとっては、「法律違反・暴力沙汰・朝廷絡み」という、スリーアウトチェンジものだったわけです。

チェンジしたのは赤穂藩主の首(物理)でしたが……。

また、綱吉の後半生には地震や火事、飢饉などが頻発したことも、暗君呼ばわりされた一因かと思われます。

当時はこういった天災を「為政者がダメだから、天が罰を与えているのだ」とみなしていたからです。

 


進む経済圏の拡大&活性化

家綱~綱吉の時期は、江戸が世界有数の大都市になった時期でもありました。

江戸~大坂間の航路(西廻航路・東廻航路)を開通。

菱垣廻船(生活用品全般)や樽廻船(主に酒類)が活発に行き交うようになりました。

江戸と大坂までノンストップで航行するわけではないので、その間で立ち寄る各地の港でも人や物が出入りし、経済が活性化します。

こうなると大事になってくるのが共通した“基準”です。

商人たちは各所の商品相場を記録しつつ、より効率化するため度量衡に使う枡の大きさや錘(おもり)、反物の長さや幅などの統一が図られました。

また、寛永通宝の大量鋳造に伴い、幕府は、古銭との混合使用を禁じるようになりました。

室町時代以前は世情が安定せず、このような経済的統一も不可能でしたが、江戸時代になって幕府が安定し、ようやく可能になったといえます。

これも中世→近世での大きな違いですね。

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また、農地開発も活発に行われました。

・税金を増やすため

・人口増加への対策

そんな観点から次々に開発されていったのですが、やりすぎてしまい、寛文六年(1666年)には乱開発の禁止と荒廃地の植林が幕府から言い渡されています。

綱吉の時代である元禄期(1688年~1704年)には、多くの農業書も出され、効率の良さも追求されました。

いずれも1640年~1643年に起きた【寛永の大飢饉】を踏まえてのことかもしれません。

ただ、さほど効果はありませんでしたが……。

他に綱吉の後半生にあたる時期のポイントとしては【元禄文化】というところも大事ですね。

社会がうまく行ってないのに文化が発展する――なんだか珍妙な感じがしますが、心理学で言うところの「昇華」かもしれません。

昇華とは、ストレスを芸術や学問等への熱中に向けることを指します。というのも、後述する【化政文化】も似たような世情でしたので。

 

徳川家宣【閑院宮家】の創立

綱吉には息子がいましたが夭折し、やはり後継者問題が持ち上がりました。

このときは綱吉の甥で甲府宰相と呼ばれていた家宣(当時は綱豊)と、紀州藩主かつ綱吉の娘婿・綱教(つなのり)が候補に挙げられます。

最終的には、血筋の近さと実績から、六代将軍は徳川家宣となりました。

徳川家宣/wikipediaより引用

家宣は将軍継承後、生類憐れみの令を即座に廃止。

綱吉の側用人として権力を持っていた柳沢吉保を退け、同じような立ち位置に間部詮房新井白石を就けました。

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傾く一方の財政に対し、改鋳や倹約令の発布などを精力的に行っていきますが、効果が上がり切る前に家宣自身が亡くなってしまっています。

家宣のやったことの中で、見逃せない功績としては、宝永七年(1710年)の【閑院宮家】の創立です。

東山天皇の第七皇子・秀宮が直仁親王として創始。

直仁親王の子・祐宮が光格天皇として即位して以来、現在の皇室にまで続いています。

これは、家宣の正室が近衛煕子であり、その実家である近衛家の後押しもあったからだと思われます。

宮家創設にあたっては、幕府からも費用の一部が献上されました。

綱吉の時代に朝幕関係が良好に向かっていたので、家宣もそこを引き継ごうとしたのでしょう。

続く七代・徳川家継は幼くして将軍となり、生来の病弱さも相まって、顔なじみで父親代わりだった間部詮房の専横がますます著しくなりました。

また、家宣の側室で家継生母である月光院 vs 家宣の正室・天英院(近衛煕子)の対立、そして将軍墓所への代参にかこつけて不純異性交遊(婉曲表現)に走る女中が多々いた事などから、大奥の代表格だった御年寄・絵島のスキャンダルに始まる絵島・生島事件が発生。絵島は流罪となりました。

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絵島の性格や後ろ盾がない出自からして、絵島本人が男遊びをしていたとは考えにくい……それでも重役が一人クビになると、だいたいのことは収まりますので。

片腕だった絵島を失って、月光院の政治的権力はほぼゼロになり、天英院が名実ともに大奥の主の座を取り戻しました。

次の将軍が「暴れん坊将軍」でお馴染みの吉宗なのですけれども、彼を将軍に推したのは天英院なのか、月光院なのかはっきりしていません。

この二人、絵島・生島事件からしばらくして和解していたらしいので、余計わかりにくくなっています。

まぁ、そもそも吉宗が将軍になるまでの経緯がきな臭すぎるのですが、それはさておき、吉宗の治世を見てまいりましょう。

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