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ペリー来航
嘉永五年(1853年)、アメリカからペリー率いる船団が浦賀に来航しました。
実は、これ以前にもジェームズ・ビドルというアメリカ人が浦賀に来たことがあります。
彼は急遽日本との交渉を行うことになった臨時の担当者のような立場で、かつ比較的大人しいタイプだったので、幕府も事態をそう重くは見ていなかったようです。
しかし、ペリーは違います。
詳しくは、以下の【関連記事】にで述べていますが、来日までに当時アメリカで得られる日本の資料をかき集め、研究に研究を重ねて日本人対策を練り上げていました。
それが見事にクリーンヒットし、幕閣もいよいよのところまで追い込まれます。
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よくよく考えてみると、日本が歴史的に、国外の大国と濃厚に接触するポイントは限られていました。
元寇は国家の危機ではありましたが、実際の戦場は北九州だけ。
ロシアやアイヌとの接触は、基本的に蝦夷地周辺です。
京都には朝鮮通信使が立ち寄ったり、舶来品の一つとして象が天皇に謁見したり、渤海国の使者がはるばるやってきたことはあったものの、全て平和な目的です。
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つまり、幕末のペリーのように「政治の中心地に、武装した外国人が直接やってきた」ことは、長い日本の歴史の中でも初めてのことだったわけです。
まぁ、ペリー来航前にも全国各地で外国船は警戒されており、前述のように幕府でも心構えはありましたが、実際に来ると庶民や各藩の反応はそう簡単ではないですわな。
幕府としては、ペリーへの対応を模索している最中に、徳川家慶が急死。
少しだけ時間的な余裕ができます。
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しかし、他にもフランスのインドシナ艦隊が長崎へ来たり、琉球へも開国を求める圧力がかかったり、イメージ的にはまさに四面楚歌というやつです。
江戸時代の文化史でよく出てくる【化政文化】は、こういった混乱の最中である1804~1830年が最盛期です。
「化政文化は黒船来航の20年くらい前」と覚えておくのがわかりやすいですかね。
⑤家定~慶喜時代(幕末)
大河ドラマ等でもよく取り上げられている時代。
何となくイメージできる人も多いのではないでしょうか。
しかし、この頃はほぼ一年刻み、あるいは同じ年にいくつも重要事件が起きていた時代でもあり、かなりややこしいところです。
受験生の方は、年号だけでなく順番もきっちり押さえるのがコツ。
先に、家慶時代の後半あたりからの年表を出しておきましょうか。
同年の出来事については、左側が先に起きたものです。
1842年 薪水給与令
1844年 オランダ王からの開国勧告
1846年 アメリカ人ビドル来日
1853年 ペリーが浦賀に来航、家慶死去→家定将軍就任、プチャーチンが長崎に来航
1854年 日米和親条約
1855年 安政の大地震
1856年 ハリス着任
1858年 日米修好通商条約、家定死去→家茂将軍就任、戊午の密勅、安政の大獄開始
1860年 桜田門外の変
1861年 和宮が家茂へ降嫁、文久遣欧使節が出発
1863年 浪士組(新選組の前身)結成、家茂上洛、下関戦争(1回目)、薩英戦争、八月十八日の政変
1865年 対外条約への勅許
1866年 薩長同盟、第二次長州征伐
1868年 戊辰戦争開始
1869年 戊辰戦争終結
幕末作品ではド定番のイベントが並びますが、これをバカ真面目に暗記しろ、と言われてもしんどいですね。
下関戦争については「馬関戦争」と呼んだり、1863年のほうを「下関事件」、翌年のほうを「下関戦争」と区別したりする場合もあるなど、表記がまだ統一されてません。
ここでは1回目・2回目とさせていただきました。
簡単に流れだけ押さえておきましょう。
徳川家慶の急死により、急遽十三代将軍になったその息子・徳川家定。
しかし、彼は幼い頃から病弱すぎて子供がおらず、当初から後継者問題が持ち上がっていました。
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つまり、この時期の幕府は
「西洋諸国への対策」
「治安と経済回復」
「将軍継嗣問題」
という、三つのドデカイ課題に対応しなければならなかったんですね。
この中で、最も簡単に解決できそうだったのが、皮肉にも対外政策でした。
1854年に日米和親条約を結んだのを皮切りに、幕府はイギリスやロシア、オランダとも条約を結び、開国の方針を決定。
タイミングの悪いことに、1855年には安政の大地震が発生します。
例によって天災は為政者の責任でもあります。
幕府の信頼は転がり落ち、この頃には、
「異人なんぞと付き合いを始めたから、災いが入ってきたんだ!」
「天が”外国なんかと付き合うな”とおっしゃっているに違いない!」
というように捉えた人も少なからずいたようです。
あまりにもタイミングがかみあってますからねぇ……。
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しかし、鎖国継続を望んでいた水戸藩などの武士や、生粋の外国人嫌いだった孝明天皇には許しがたいことでした。
そもそも開国について孝明天皇は同意しておらず、本来は朝廷の臣下であり、あくまで代理の政治機関である幕府が、天皇をないがしろにした時点でアウトなわけです。本来は……。
といっても京都の皇室・貴族は海外の諸事情など一切把握しておらず、「外国人なんて嫌いだから」レベルの話で、現実問題、対処できるわけがありません。
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さらに、家定もまた就任から数年で亡くなり、次は紀州藩主・徳川慶福が、徳川家茂と名を改めて十四代将軍に就任。
徳川家の親族である御三卿のひとつ・一橋家には、家茂よりも年長の慶喜がいて、ここに薩摩なども絡んでいましたが、結局は、前将軍との血筋が近い家茂となります。
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家茂は、幼少の頃から聡明で知られていました。
ただ、当時はまだ10代の少年。実務を全て自らの采配でやっていくのは難しい年頃です。
綱紀粛正と幼君への反乱防止のためか、ときの大老・井伊直弼は、厳しく忙しない政策を採りました。
【安政の大獄】はその代表格です。
政治をかき乱す一橋派の粛清を行ったんですね。
薩長を中心に描く幕末フィクションですと、とかく残酷な所業に描かれがちなこの直弼の行動ですが、彼からしてみれば邪魔ばかりしてくる一橋派を遠ざけたというところでしょう。
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幕府も無策ではありません。
少しでも西洋とマシな関係を築こうと、新見正興らをアメリカに送ったり、福沢諭吉が参加したことで有名な文久遣欧使節を派遣したり……。
しかしその間に生麦事件や薩英戦争、下関戦争など、西洋諸国とのドンパチが始まり、結果、薩長では倒幕への舵取りが進みます。
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そして最後の大政奉還ですね。
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明治時代になってからの藩閥政治、さらに大戦への暴走を考えると、この政権交代が「よかった」とは言い難いかもしれません。
この後の詳細は以下の記事をご参照ください。
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政治の流れだけを追うと、いささか堅苦しく長い江戸時代。
しかし、冒頭で述べたように、日本史の中では特に「寄り道」が楽しい時代でもあります。
例えば大奥や町人などは人気のあるカテゴリですよね。
これらを扱ったドラマや映画、小説、マンガは非常に多く、名作もたくさんあります。
中央の政治事情と地元の歴史を見比べて「この大事件が起きていた時、ウチのお殿様は何かしたのかな?」なんて見方をしてみるのも面白いかもしれません。
各大名家のお家騒動なども、物騒ながらにツッコミどころや教訓が見えてきたりします。
また、幕末にやってきた外国人の目から見た日本の記録には、冷製で客観的な記述も多く、斬新に感じられるかもしれません。
堅苦しい話に飽きてしまったら、そういった切り口で触れてみるのも良いのではないでしょうか。
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【参考】
国史大辞典「慶長・元和期」「寛永・慶安期」「寛文・延宝期」「天和・貞享期」「元禄・宝永期」「正徳期」「享保・寛保期」「享保の改革」「宝暦・天明期」「寛政・享和期」「文化・文政期」「天保・弘化期」「嘉永・安政期」「文久・慶応期」