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③吉宗~家治時代(変革期)
一気に進んできました。
もし受験生の方がおられましたら、そろそろ暗記が辛くなってくる時期です。
「どの将軍が」
「どの順番で」
「何のために」
何をやったのかを一つずつチェックしていきましょう。
まずは八代将軍・徳川吉宗の時代です。
六代・家宣&七代・家継が早くに亡くなり、吉宗が将軍になった頃の幕政は混乱しつつありました。
そもそも吉宗が将軍に選ばれたのも、紀州藩主時代に
「前藩主・現役藩主が立て続けに亡くなり、相次ぐ葬儀代その他で藩財政が火の車以上の最悪っぷりだったのを、一人で立て直した」
という点が高く評価された……というのが大きな理由です。
吉宗は自分の能力を証明するためにも、就任早々に財政再建に取り組まなければなりませんでした。
それが【享保の改革】と呼ばれる一連の施策です。
数年刻みで次々に新しい用語が出てくるので、年号や詳細はまた後日するとしまして……ざっくり並べるとこんな感じです。
・火事が起きた際の被害を最小限に留めるため、江戸に【町火消】を設置
・市民の声を直接聞くために【目安箱】を設置
・参勤交代の負担を軽減する&幕府の米蔵を満たすための【上米の制】
・能力ある武士が服装などで面子を保てるように、幕府が補助を出す【足高の制】
・数少ない改鋳の成功例【元文の改鋳】
・実質的にこれ以降の基本法となる【公事方御定書】
多いですね(・_・;)
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吉宗自身は、嫡子・徳川家重の健康問題などの懸念があったため、60歳を超えたあたりで早めに大御所となり、家重の後見という立場に落ち着きました。
実際には、吉宗の権力は亡くなるまでそのままでしたけれども。
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なぜかというと、家重には言語不明瞭や排尿障害と思われる症状があり、常に健康な状態で政務に取り組めるとは限らなかったからです。
これらは、幼い頃に罹った脳性麻痺の後遺症と考えられています(成長してからの深酒も影響したかもしれません)。
家重の言葉を直接解することができたのは、側近の大岡忠光だけだったともいわれています。
しかし、家重は正室の増子女王(ますこじょおう・伏見宮邦永親王の四女)との関係は良好で、一緒に船に乗って隅田川を遊覧したり、子供も授かっていました。
少なくとも、増子女王とは意思の疎通ができていたのでしょう。
残念ながら、この子供は早産のためか産まれてすぐに亡くなってしまい、増子女王自身も産後の声立ちが悪く、出産から一ヶ月もせずに亡くなってしまっています。
家重はその後も色好みの傾向は持ち続けたものの、正室を迎えることは二度となかったとか。
このことからすると、家重の言語不明瞭は「発語に問題があった」のではなく、「声帯もしくは喉に何らかの疾患を抱えていたために、声が小さい・通りにくくなっていた」というものだったのではないか……という気がします。
完全に私見ですが、ごく間近で家重の言葉を聞いていたであろう忠光だけが意を解したことも理由がつきますし、忠光に野心がほとんどなかったというのも納得できます。
「近づきさえすれば家重の言いたいことがわかる」
そうであれば、忠光自身の能力が高かった理由にはなりませんし、まともな人なら偉ぶりたいとは思わないでしょう。
家重の治世では、父のやってきた改革をさらに推し進めるべく、幕府の財政監査を厳格にしたり、酒造の規制を緩和して消費や流通を促進しようとしたりしていました。
しかし、うまくいきません。
世間では悪評のほうが高く、吉宗の改革で行われた増税に対し、農民が一揆を起こすようになっています。しわ寄せが来たんですね。
さらに、家重の在職期間には飢饉や水害もまた多く、割りを食った感があります。
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また、京都で尊王論者と公家が結託し、家重の将軍罷免まで計画していた【宝暦事件】も起きています。
家重がしっかり物を考えることができていたとしたら、幕閣からも町人からも公家たちからも蔑まれて、さぞ辛かったでしょう……。
田沼を重用した家治の治世
宝暦十年(1760年)に大岡忠光が亡くなると、家重は嫡子・徳川家治へ将軍職を譲ります。
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そしてその翌年に亡くなりますので、元から体調に不安を感じていた可能性もありますね。
「自分の意を正しく解してくれる者がいなければ、政治をやっていけない」
その判断ができていれば、家重の頭がきちんと働いていた証左になります。
十代・家治は幼い頃から聡明で、祖父である吉宗にも期待されていました。
一説には、家重を経ず、直接家治に将軍職を譲る事も考えていたとか。
しかし、長じてからの家治は、あまり政治には積極的ではありませんでした。
父の意向により、田沼意次を登用して御用人→老中に任じてはいますが、次第に政治への関心を失っています。
大きな功績としては、大奥予算の三割を削減したことでしょうか。
家治は徳川将軍の中でもかなりの愛妻家で、正室の倫子女王(ともこじょおう・閑院宮直仁親王の六女)ともかなり良好な関係でした。
二人の間には娘が二人産まれていますが、残念ながら両方とも夭折しています。
また、倫子女王自身も34歳で亡くなっており、家治は側室を勧められてもなかなか承知しなかったとか。
さらに、側室から男子が産まれた後は全く関心を示さなかったともいわれており、倫子女王との仲の良さがうかがえます。
家治からほぼ全面的に政治を任された意次は、災害時でも財政を逼迫させないための施策を開始しました。
モットーは重商主義。
鉱山開発を進め、少しでも農産を安定させるための耕地開発(蝦夷開発・印旛沼干拓)などもしています。
これによって、天候にほぼ完全依存する農産物の収入割合を下げ、お金を直接幕府に入れることで、財政再建を目指したのです。
あるいは税の多様化をはかって、収入経路を増やそうともしました。
前述のように社会構造が第一次産業から他へシフトしているので、現代であれば当たり前の考えでしょう。
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しかし、その成果が一般にも感じられるようになる前に、
・浅間山の噴火
といった大災害が発生。
綱吉時代同様に「為政者がダメだから天罰が下ったんだ」という世論が主流になってしまいました。
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意次については「こいつのせいで贈収賄が横行したから悪い」というように語られがちですが、別に意次だけが受け取っていたわけではありませんし、受け取らなければ受け取らないで悪評を立てられるおそれもありました。
後ろ盾が将軍以外にほとんどない意次としては、立場を悪くしないための収賄でもあったでしょう。
さらに、意次が名誉挽回のための実績を上げる前に、最大かつ唯一の後援者である家治が亡くなってしまいます。
死因は脚気衝心(脚気による心不全)とされていますが、このタイミングだと何だかイヤーな感じがしますね。
意次は真綿で首を絞められるように、領地を次々に没収され、ついには老中の地位も奪われて隠居謹慎となりました。
一つ空いた老中の席には松平定信が入り、十一代将軍には家治のいとこ・一橋治済の息子である徳川家斉が就任します。
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④家斉~家慶時代(衰退期)
「幕末に向かうまで、幕府がもがいていた時期」
この時期を一言でまとめると、こんな感じでしょうかね。
幕府への不信と財政難が悪化する一方で、それでも踏ん張り続けます。
どの藩もこのあたりになると世継ぎ問題やら財政難やら飢饉やらで、幕府に反抗するどころではなかった……というほうが正しいかもしれません。
田沼意次の政治を否定した松平定信は、厳格にすることで世の中を引き締めて幕政を立て直そうとしました。
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しかし、相次いだ災害による年貢等の税収減に対応しきれず、数年で失脚。
また、ロシアやアメリカから通商を求める使者が送られるようになったため、国境の測量や防備強化が意識されはじめたのもこの時代でした。
この頃はまだ鎖国を継続する考えが強く、異国船打払令=「外国の船は全員攻撃しておk」という法が出されています。
日本地図が持ち出されそうになったことに始まる【シーボルト事件】も、「やはり外国人と親しくするのは危険」という考えに結びついたかもしれません。
ただし無策というわけではありません。
定信が失脚した後は蝦夷地の測量や、これまで松前氏に一任していた蝦夷の支配権を一時幕府の直轄としていました。
後者については、さほど間を置かずに松前氏に戻していますが……そういうどっちつかずなところが、いかにも混乱期ですね。
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また、寛政の改革に携わった幕閣がほとんどいなくなった後、実権を握った老中・水野忠成の行った【天保の改革】がマズすぎました。
度重なる倹約令や、収入を補うための上知令も効果が上がらず、苦し紛れの改鋳乱発でさらに経済は悪化。
さらに、歌舞伎や出版物などの娯楽に対する過干渉は、民衆から幕府への大不評と不信を招きました。
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ついでに1833年からは【天保の大飢饉】が発生。
やっぱり「幕府がダメすぎて天罰が下っているんだ! つきあわされる俺達の身にもなってみろ!」と民衆は激怒します。
一方で、幕府はヨーロッパへの対応を改めはじめていました。
西洋の砲術や兵器等を導入した軍事改革とともに、異国船打払令を撤回してやや柔和な方針にしています。
キッカケは1840年のアヘン戦争です。
大国・清がイギリスに負け、日本でも今までと同じように「西洋人は全員ブッコロ!!」と言い続けることはできないと感じたのでしょう。
江戸湾(東京湾)の防備もこの時期から意識され始めています。
家斉は天保八年(1837年)に大御所となり、十二代・徳川家慶に将軍職を譲りました。
が、天保十二年(1841年)に亡くなるまで幕政の実権は握り続けています。
あまり親子仲が良くなかったことに加え、家慶自身に政治的能力が欠けていたからだとされています……(´・ω・`)
広がる国外への好奇心
将軍家の不仲。
度重なる不況と天災。
こうした世情を受けて、幕府の政治能力を疑い始めた市民も多くなりました。
天保年間に江戸で蘭学が盛んになったのも、そうした背景の影響があったのかもしれません。
ちょうど戦国時代に新たな救済を求めた庶民が、キリスト教に望みを抱いたように。
この頃はごく一部の地域における隠れキリシタンを除いて、キリスト教を信じている日本人はいませんでした。
それでも幕府は蘭学の影響に危機感をいだきました。
天保十年(1839年)に【蛮社の獄】で蘭学を取締り、儒教(朱子学)を改めて正当な学問であるとしたのです。
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しかし禁じられれば禁じられるほど人の欲は反発して燃え上がるもの。
蘭学、そして開国への関心は学者や地方武士などの間で広がっていきました。
幕府もアヘン戦争の件から「あまり強硬路線でいると、清のように力ずくで開国させられるかもしれない」という懸念は抱いていたようです。
この頃の老中首座・阿部正弘が比較的融和路線だったこともあり、天保十三年(1842年)に【薪水給与令】を発令。
「開国はしないけど、船の燃料や水の補給は協力するよ」
そんな方針を西洋の国々に示しています。
実際、幕府も海防や開国の可能性は早くから感じていました。
幕末フィクションでは、とかくマヌケに描かれがちですが、幕府は割と十分な対応をしていたのです。
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しかし、それから2年後にオランダ王から、こんな勧告が来ます。
「今のうちに開国したほうが、戦争にならないと思うよ。君たちが伝統として鎖国をしてきたことは、ヨーロッパの国は皆知ってるけど……。よく考えてね(´・ω・`)」(超訳)
外国からは薪水給与令では物足りないと思われていたのですね。
まぁ、西洋諸国は「少なくとも市場ゲット」という見方もできますしね。
アメリカの場合は「捕鯨船の拠点を得る」という目的がありました。当時、欧米諸国はクジラの皮下脂肪や骨・内臓から得られる鯨油を照明や工業などに使っていたからです。
また、女性のスカートの後ろ側をふっくらさせたまま保つ「バッスル」という枠を作るのにも、鯨の骨を用いていたことがありました。
それでいて肉はあまり食べなかったそうですが……。
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