江戸

織田&豊臣の重臣末裔が起こした「名張騒動」悲劇の名張藤堂家邸跡へ

先日「名張藤堂家(なばりとうどうけ)邸跡」を訪ねてみました。

史跡としてはたいして大きくないし、有名でもないのですが、意外な歴史がいっぱい詰まっていてどうしても皆さんにも知ってもらいたい!

というのも織田信長の家臣として名高い・丹羽長秀と、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の家臣として知られる藤堂高虎

錚々たるメンツの子孫たちで「名張騒動(なばりそうどう)」が起きていたのですね。

早速、ご報告させていただきましょう!

 

実質的な城が明治維新で取り壊されて

三重県名張市・名張中学校――その前にこじんまりと建っている。

それが今回の目的名張藤堂家邸跡です。

名張藤堂家邸跡

本当はもっと大きく、実質的な“お城”だったのですが、明治維新のころに取り壊されてしまったのだそうです。

残ったのは、この名張藤堂家のプライベートエリアだけなんですね。

写真の赤い枠の部分です

先ほど「実質的な“お城”」と表現しましたが、実はそれにはワケが。

説明するには、藤堂高吉という人物について少し触れる必要があります。

 

藤堂高吉

藤堂高吉は天正7年(1579年)、近江佐和山城で丹羽長秀の三男として生まれました。

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幼名は仙丸(せんまる)。
丹羽長秀は、柴田勝家や豊臣秀吉、明智光秀らと同格の織田家重臣でしたが、本能寺の変の仇討ち競争で後れを取り、後継者争いから脱落してしまいます。

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そこへ触手を伸ばしたのが羽柴秀吉でした。

秀吉は羽柴=丹羽の結びつきを高めるため、まだ幼い仙丸を弟・羽柴秀長(豊臣秀長)の養子として迎えます。仙丸は、のちの「大和豊臣家の相続人」として育てられられたのです。

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しかし天正16年(1588年)、秀吉は甥を秀長の跡継ぎに指名(あれ、丹羽長秀との繋がりはどうするんだ?)。

秀長は仙丸を割りと気に入っていたようで抵抗しますが、兄のゴリ押しにはかないません。

結局、当時秀長の家臣であった藤堂高虎が仙丸を養子としてもらい受けることになりました。

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高虎にも当時男児がいなかったので、もちろん「藤堂家の相続人」としてです。

仙丸は従五位下宮内少輔に叙任。高虎から「高」の字を与えられ、名を藤堂高吉と改めました。

仙丸あらため高吉は、文禄の役で朝鮮半島へ渡海。

秀吉からは朝鮮在陣の褒詞を受けています。

また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍に与して活躍し、父・高虎とともに伊予・今治20万石を得ました。

しかし、ここで高吉の運命が大きく変える出来事が起こります。

 

藤堂家に男児が誕生してしまい……

関ヶ原の翌年、慶長6年(1601年)に藤堂家に念願の男児・高次が誕生したのです。

これまでの世継ぎとしての立場は一変し、高吉をめぐる境遇は厳しくなっていきます。

まず、慶長9年(1604年)、加藤嘉明と些細な騒動を起こしたことをとがめられ蟄居処分に。参勤交代にも同伴させてもらえませんでした。

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慶長11年(1606年)に許されて江戸城普請を務めた功績により、伊予・今治城主に任じられますが、慶長13年(1608年)に高虎が今治から伊勢・伊賀へ移った後も、今治にとどめ置かれ、高虎とは離れて27年間にわたり2万石を治めることになります。

そして寛永7年(1630年)、高虎が亡くなると、2代・藤堂高次の家臣という立場になるのです。

高吉は高虎の葬儀にも参列させてもらえず、松平定房の今治転封にともない伊勢・2万石へ移されると、そのうち5000石を次男以下3名に分知するように強いられたばかりか、名張の屋敷へ移るように命じられました。

今治城から、この名張ハウスへ

名張の地行はたった5千石。
メインの1万石は伊勢(松阪・伊勢奥津?)にあったにもかかわらずです。

しかも、一説によると、高虎が高吉に5万石を与えるようにと遺言した(さすがに可哀想になったのかな?)にもかかわらず、高次はそれを実行せず、次男の藤堂高通に与えてしまったとか(これが久居藩)。
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