緒方洪庵

緒方洪庵/wikipediaより引用

江戸時代

緒方洪庵こそ聖人なり 適塾で医師を育て種痘撲滅に奔走するも最期は窒息死

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江戸にはスグに入れない!? 木更津で1年ほど準備を整え……

かくして師の勧めに従い、21歳で江戸に向かった洪庵。

当時の私塾は入学金として師匠に進物を送らなければならず、すぐに用立てることができませんでした。

そのため、木更津あたりで一年ほど、周辺の医師に蘭学や西洋医学の知識を与えて、対価にお金をもらって準備しています。

当初は泊まるところもなく、見かねたとあるお寺の住職が「それならうちにお泊まりなさい」と声をかけてくれたのだとか。これぞ正しき聖職者という感じですね。

このお寺が何というところだったのか。洪庵に声をかけた僧侶が誰だったのか。

詳細ははハッキリわからないようです。

徳川家康の歌で有名な證誠寺(しょうじょうじ)という説もありますが、どうだったんでしょうね。

というか、天游も推薦するならせめて下宿先を斡旋するなり、頼れそうな人物を紹介する成まではしてもいいと思うんですが(´・ω・`)

苦労の末、一年後にやっと当初の目的である坪井信道(しんとう)の塾へ入門します。

何の後ろ盾もない洪庵は、入塾後のビンボーぶりもスゴイもので、内職をして学費を稼いでいました。

そんな姿を、他の塾生にからかわれることもありましたが、師の信道は、洪庵の熱意と立場を理解し、目をかけるようになります。

信道も、かつては洪庵に負けないレベルのビンボーで苦学していたので、他人事とは思えなかったのでしょう。

おそらく洪庵をバカにしていた連中は、昔のお師匠様の境遇を知らなかったのでしょうが……気の短い人だったら、引っ叩かれていてもおかしくありませんね。

史跡・緒方洪庵旧宅および適塾の内側

 

長崎での診療生活を経て大坂へ

信道はさらに、自分の師匠(洪庵からすれば大先生)の宇田川玄真に紹介。

様々な人との繋がりに助けられ、洪庵は知識を貪欲に吸収していきます。

そして一通り江戸で医術を学んだ洪庵は、26歳のとき長崎に行き、西洋医学を吸収しながら医師として身を立てることにするのです。

江戸にいた頃、薬屋を営んでいた億川百記の娘・八重と婚約しており、長崎での学費は舅からの工面でやりくりすることができました。

婚約の段階で金を出してやるというのも随分気前のいい事ですが、百記は信道の塾に出入りしていたので、洪庵の人となりをよく知っていたのでしょう。

娘を安心して託せる人物だと確信したからこそ、夫婦揃って苦労しないように、未来の婿の世話を焼いたということでしょうか。いい話や。

長崎では、3年ほど診察をしていました。

オランダ人の誰と付き合いがあったかは不明ですが、当時の長崎では通詞(通訳)のツテでオランダ人と交流したり、オランダ商館を訪ねることができたそうです。

洪庵も、オランダ人と接触する機会は多々あったでしょうね。

その後一度、足守に帰り、家族と再会。その年のうちに大坂の瓦町で適塾を開業します。

この頃の大阪は【大塩平八郎の乱】や【蛮社の獄】が起きた後で、西洋の学問が白眼視されていた頃です。かなりの度胸ですね。

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師匠の天游も塾を続けていたので、お互い励まし合いながら教育や医学に励んでいたのかもしれません。

 

適塾は「勉学第一! 個性尊重!」

開業して一段落した頃、八重と結婚しています。

挙式は大坂だったため、岡山県の両親は臨席していません。

翌年夫婦で足守に行き、正式にあいさつを済ませました。その後も双方の実家と良い関係を築いていたようです。

また、足守藩主・木下利愛(としちか)から無事に医学を修めたことを褒められ、特別に三人扶持を受け、さらに励むよう命じられています。

洪庵は開業して次の年に、大坂の医師番付で「前頭」と評価されており、仕事が順調だったことがうかがえます。

それに従って塾生が増えたため手狭になり、洪庵35歳のときに瓦町から過書町へ移転しました。

現在残っている適塾はこちらのほうです。

塾の気風としては、勉学第一・個性尊重といったところでしょうか。

塾の中では階級があり、蘭学の理解度によって上がっていきました。階級が上がると塾の中でより良い場所が使えるので、みんなやる気を出したといいます。

その他のことについては洪庵はあまり口出しせず、塾生の個性を尊重していました。

門下だった大村益次郎や福澤諭吉があんな感じになったのも、お師匠様のポリシーによるものということでしょう。

生活ぶりについても奔放なもので、これは福澤の回顧録「福翁自伝」がわかりやすい……というかぶっ飛びすぎてて笑えます。

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