緒方洪庵

緒方洪庵/wikipediaより引用

江戸時代

聖人・緒方洪庵 54年の生涯~適塾で医師を育て種痘撲滅に奔走した偉大なる功績

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長崎での診療生活を経て大坂へ

信道はさらに、自分の師匠(緒方洪庵からすれば大先生)の宇田川玄真に紹介。

様々な人との繋がりに助けられ、洪庵は知識を貪欲に吸収していきます。

そして一通り江戸で医術を学んだ洪庵は、26歳のとき長崎に行き、西洋医学を吸収しながら医師として身を立てることにするのです。

江戸にいた頃、薬屋を営んでいた億川百記の娘・八重と婚約しており、長崎での学費は舅からの工面でやりくりすることができました。

婚約の段階で金を出してやるというのも随分気前のいい事ですが、百記は信道の塾に出入りしていたので、洪庵の人となりをよく知っていたのでしょう。

娘を安心して託せる人物だと確信したからこそ、夫婦揃って苦労しないように、未来の婿の世話を焼いたということでしょうか。いい話や。

長崎では、3年ほど診察をしていました。

オランダ人の誰と付き合いがあったかは不明ですが、当時の長崎では通詞(通訳)のツテでオランダ人と交流したり、オランダ商館を訪ねることができたそうです。

洪庵も、オランダ人と接触する機会は多々あったでしょうね。

その後一度、足守に帰り、家族と再会。その年のうちに大坂の瓦町で適塾を開業します。

史跡・緒方洪庵旧宅および適塾

この頃の大阪は【大塩平八郎の乱】や【蛮社の獄】が起きた後で、西洋の学問が白眼視されていた頃です。かなりの度胸ですね。

師匠の天游も塾を続けていたので、お互い励まし合いながら教育や医学に励んでいたのかもしれません。

 


適塾は「勉学第一! 個性尊重!」

開業して一段落した頃、八重と結婚しています。

挙式は大坂だったため、岡山県の両親は臨席していません。

翌年夫婦で足守に行き、正式にあいさつを済ませました。その後も双方の実家と良い関係を築いていたようです。

また、足守藩主・木下利愛(としちか)から無事に医学を修めたことを褒められ、特別に三人扶持を受け、さらに励むよう命じられています。

緒方洪庵は開業して次の年に、大坂の医師番付で「前頭」と評価されており、仕事が順調だったことがうかがえます。

それに従って塾生が増えたため手狭になり、洪庵35歳のときに瓦町から過書町へ移転しました。

現在残っている適塾はこちらのほうです。

適塾の内側

塾の気風としては、勉学第一・個性尊重といったところでしょうか。

塾の中では階級があり、蘭学の理解度によって上がっていきました。階級が上がると塾の中でより良い場所が使えるので、みんなやる気を出したといいます。

その他のことについては洪庵はあまり口出しせず、塾生の個性を尊重していました。

門下だった大村益次郎や福澤諭吉があんな感じになったのも、お師匠様のポリシーによるものということでしょう。

生活ぶりについても奔放なもので、これは福澤の回顧録「福翁自伝」がわかりやすい……というかぶっ飛びすぎてて笑えます。

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