宝暦12年(1762年)10月25日は徳川家基(いえもと)が生まれた日。
はて、江戸幕府にそんな将軍いたっけ?
御三家の誰かな?
と思われるかもしれないこの方、実は「幻の11代将軍」とも称される人物で、2025年大河ドラマ『べらぼう』にも登場します。
公式サイトでも「幼い頃から聡明で、田沼意次の政策を批判する」と解説され、同時に18歳の若さで「謎の死を遂げる」とも記されているのですから、何やらやぶさかではありません。
こんな書き方をされては俄然興味が湧いてくるというもの。
一体どんな人物だったのか?
なぜ今までの歴史劇で注目されてこなかったのか?
当時の江戸幕府の状況を確認しながら、18歳という若さで亡くなった徳川家基の生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
家治と意次の評価は変わる
徳川家基の父である10代将軍・徳川家治。
皆さんはどんな印象をお持ちでしょう?
明治時代以降は、政権交代の反動もあり、江戸時代や徳川将軍の実力が過小評価されがちで、家治も高評価を受けたわけではありません。
かつては祖父の徳川吉宗も期待をかける聡明な少年だったのに、成人してからは文弱で趣味の絵にばかり夢中となり、田沼意次の言いなりだったと見なされたのです。
しかし、これは見方一つの話でして。
政権が盤石となっている以上、政治の舵取りを吏僚に任せることは問題でもありません。
実情を知らずに口を出してくるほうが厄介でしょう。
家治の場合は“田沼意次の評価”が鍵となるのです。
アジア・太平洋戦争の終結前、日本史には三悪人がおりました。
上の二人は「皇室に対して不敬である」という点が理由とされましたが、田沼意次はなぜ悪人に選ばれたのか?
ワイロです。
贈収賄政治家という悪評がすこぶる広まり、したがって田沼を重用していた「家治も暗君だ」とされたのです。
田沼の評価というのは実に難しい。
彼も時代ごとに捉え方は変わるものであり、幕末の有能な幕臣である川路聖謨は高く評価していました。
その後、明治~戦前期を経て、アジア・太平洋戦争の終結により徳川幕府への不当な低評価という呪縛が解けると、田沼意次の再評価も進み、今度はその田村を重用した家治の評価も上がります。
そしてそんな田沼の功績の一つに“徳川家基の誕生”があるのです。
家基誕生までの過程
幼い頃から聡明とされた10代将軍の徳川重治。
しかし重治には、将軍としての役目を果たしきれていない重大な欠点がありました。
世継ぎを儲けることです。
元文2年(1737年)生まれの家治は、宝暦4年(1754年)に御台所を迎えました。
相手は、元文3年(1738年)生まれの五十宮倫子です。
二十歳にならぬ初々しい夫婦はそれはもう仲睦まじく、互いに思い合う姿は微笑ましいものでした。
しかし、待望の男児が授かりません。
宝暦6年(1756年)に生まれた長女・千代姫、宝暦11年(1760年)に生まれた第万寿姫は残念ながら夭折。
こうなってくると、倫子と仲睦まじいものの、色事に淡白である家治に、周りの者は不安なまなざしを向けるようになります。
せめて側室でもあればよいものの、家治が興味を示さないのです。
さぁ、どうすべきか?
世継ぎを産む「腹」を斡旋する
徳川将軍に世継ぎが産まれないことは、これが初めてでもありません。
3代・徳川家光は女性そのものに興味関心を抱かず、春日局ら周囲の者たちがどうにか知恵を絞り、大奥を設置したのでした。
家光と比較すると、家治の場合はスムーズにことが運びます。
大奥から田沼意次に「お知保を家治のそばに上げてはどうか」と相談が持ちかけられたのです。
お知保は寛延2年(1749年)11月、大御所・徳川家重の御次としてお蔦(おつた)という名で大奥に入り、家重逝去後も仕え、お知保と名を改めておりました。
春日局の場合、家光が好みそうな女性を選ぶのに実に骨を折ったものです。
その点、家治は素直な性格だったのか、周りから勧められればどうにかなるんでは?と思われていたフシがあります。
当時の大奥は、実のところドラマや漫画のようにはドロドロしていません。
世継ぎをもうけるためのシステムが完成しており、家治の場合もそうした。
ここで重要なのは「田沼意次が大奥に気に入られていた」ということでしょう。
大奥で人気のでる人物は「イケメン」であることが多く、田沼も行事などで彼女たちの前に姿を見せると、女性がうっとりと眺めてしまうような美男であったと伝わります。
男女逆転版『大奥』では松下奈緒さん、『べらぼう』で渡辺謙さんが演じるのも納得できる話。
単なる見た目だけでなく、立ち居振る舞いや気配りといった要素も、愛される美徳となったことでしょう。
この田沼に相談を持ちかけた大奥の実力者としては、筆頭である松島か、あるいは田沼と懇意であった高岳とされています。
かくして家治にお治保が勧められ、「腹」として受け入れることになります。
田沼としても悪くはない話です。
家治だけでなく、次に生まれてくる将軍の代まで自身が権勢を保てるかどうか。政治改革を進めている彼としては、なんとしても成し遂げたいこと。
徳川幕府の将軍側近は、主君の死と共に権力を追われることが通例であり、田沼としては、どうしてもそれを避けたかったのでしょう。
宝暦12年(1762年)10月25日、かくして待望のお世継ぎとなる竹千代、後の徳川家基が産まれました。
※続きは【次のページへ】をclick!