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【土山宗次郎】
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狂歌文壇ネットワークが蝦夷地政策背後にあった
むろん毎日が毎日、遊んでばかりではありません。
天明3年(1783年)、土山宗次郎は工藤平助の『赤蝦夷風説考』を読み、蝦夷地開発を提言したとされます。
田沼意次が蝦夷地の重要性を認識したのは何がきっかけだったのか、何時のことだったのか、その辺りは諸説あるのですが、土山宗次郎だったとしてもおかしくないシチュエーションです。
土山が出入りする狂歌文壇には、四方赤良(大田南畝)の親友である内藤新宿の煙草屋・稲毛屋金右衛門の顔もありました。
彼は文人・平秩東作(へづつ とうさく)としても知られ、平賀源内とも親しくしていました。

平賀源内/wikipediaより引用
『べらぼう』では、この平秩東作が「蝦夷地では金が取れる」と平賀源内に告げる場面がありました。
狂歌を通した江戸の情報ネットワークに蝦夷地情報が流れていてもおかしくはありません。
『赤蝦夷風説考』が知る人ぞ知るものとして回し読みされる余地がないとは言い切れないのです。
なお、この『赤蝦夷風説考』は『加摸西葛杜加国風説考(かむさっかこくふうせつこう)』が正式名称であるという説も近年出てきており、今後変更される可能性はありますがドラマでは従来通りの説を採用していますね。
ちなみに「加摸西葛杜加」が「かむさっか」となります。
平秩東作は、本草学の知識を活かし、鉱山開発をする平賀源内と行動を共にしており、あたかもスパイ映画のような人脈が形成されます。

平秩東作/国立国会図書館蔵
大田南畝の営む狂歌サロンに出入りする土山宗次郎と平秩東作。
この平秩東作に、土山宗次郎が蝦夷地探検の密命をくだす。
そして平秩東作が得た情報を土山宗次郎が松本秀持に報告し、田沼意次が政策を進めてゆく。
狂歌を介した秘密の情報ネットワークが出来上がってゆくのです。
『べらぼう』第21回放送では、土山主催の花見の会が、吉原で開催。
あの場面では身をやつして参加した田沼意知が、松前藩勘定奉行であった湊源左衛門と蝦夷地の情報交換をしておりました。
ああした状況は一から創作したものではなく、「ありえた」ものであったのです。
宴の裏で、幕府の政策を決めることになる情報作戦が展開されていて、それがありえたのだとしたら驚くべきことではありませんか。
天明4年(1784年)にはいよいよ平秩東作らを派遣。
天明5年(1785年)にはさらに本格的な調査がなされています。
しかし、この日々も長くは続かないのです……。
転落、そして斬首
公私ともに充実した土山宗次郎――その日は天明6年(1786年)、徳川家治の死によって終わりを告げます。

徳川家治/wikipediaより引用
家治の庇護を失った田沼意次は失脚し、その元にいた人材も一掃。松本秀持も罷免されました。
土山宗次郎は、罷免だけでは済まされません。
富士見宝蔵番頭を務めていた土山は、買米金500両の横領が発覚し、さらに余罪ありとみなされ身辺を調査されます。
娘が病死していたにもかかわらず、生きているかのように装っていたこと。
狂歌師たちと連日連夜遊び回っていたこと。
そして、誰袖という女郎を妾としていること。
たまらず土山は逐電し、平秩東作を頼ります。
平秩は武蔵国所沢の山口観音に土山を匿いました。現在、プロ野球・西武ライオンズのベルーナドームのすぐ隣にある金乗院です。
しかし、やがて発見されてしまい、天明7年(1787年)12月5日、土山宗次郎は斬首されました。
武士でありながら切腹すら許されない酷い最期でした。
彼が酒池肉林に耽っていたことは世に広く知られており、それも当然とみなされたことでしょう。
【田沼時代】は武士が堕落したとしか言いようのない不祥事が連発しており、江戸っ子も呆れ返っていたのです。
その代表格として土山宗次郎が斬首されたことは、痛快事とみなされてもおかしくはない。
来たるポスト【田沼時代】への露払いのようにすら思えたかもしれません。
では、彼の隣で艶然と微笑んでいた誰袖はどうなってしまったのか?
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