こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【柴野栗山の生涯】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
徳島藩の藩儒、藩主侍読として江戸へ登る
柴野栗山の名は、高松藩を超えて轟いていました。
明和4年(1767年)に徳島藩の【藩儒】となると、翌明和5年(1768年)には同藩主・蜂須賀重喜と共に江戸へのぼります。

蜂須賀重喜/wikipediaより引用
そして安永5年(1776年)には、藩主の【侍読】にまで出世を遂げました。
大名同士が顔を合わせる江戸では、各藩ともに自慢の人材を揃えたくなるもの。
柴野栗山は、そんな江戸でも秀逸な儒者として名を馳せていたことでしょう。
大河ドラマ『べらぼう』では登場しませんでしたが、時系列から言ってドラマ序盤の時点で彼の名は高まっていたはずです。
同郷の平賀源内や、須原屋市兵衛が言及してもよさそうなところですが、中盤まで出番はありませんでした。
なぜなのか?
栗山は、あくまで上級武士に仕える立場であり、かつ専門も儒教であるため、源内や須原屋とは交友関係が重ならなかったのでしょう。
-
『べらぼう』里見浩太朗演じる須原屋市兵衛~幕府に屈せず出版を続けた書物問屋の生涯
続きを見る
儒教を熱心に学んでいる蔦屋重三郎の妻・ていならば、知っているかもしれません。
では、栗山にとって平賀源内や蔦重とはどんな存在だったのか?
というと、これはある程度の予測はつきます。
平賀源内は男色家として当時から有名であり、劇中でもそう描かれていました。
儒教倫理からすると望ましくはありません。キリスト教圏やイスラム教圏のように犯罪者扱いこそされないものの、子孫を残すことをせず、色に溺れることは堕落と見なされました。
しょうもない下劣な戯作を手がけ、夷狄の学問を好む。おまけに仕官させてくれた殿を裏切ってフラフラしている源内は、全くもって話にならない堕落男――栗山なら、そう考えてもおかしくないでしょう。
ましてや吉原ものの蔦重なぞは言うまでもありません。
劇中の平賀源内を見ていれば、彼が栗山なんて好むわけがないことも想像はつきます。
仕官して順調に出世を遂げ、ひとかどの人物として名を為すことができず、晩年の源内は焦燥感を抱いていたと指摘されます。
しかし栗山のように、自由とは無縁で四角四面の人生を歩むことは、己には無理だと源内も感じていたでしょう。
松平定信のもとで寛政異学の禁を推進する
平賀源内が不可解な死を遂げ、源内と繋がりのあった田沼意次も政治的失脚に追い込まれた後の時代。
将軍は、十代・徳川家治から十一代・徳川家斉へと代替わりを果たし、人事も刷新されました。
そして天明7年(1787年)に松平定信が老中に就任。
柴野栗山はこのとき、定信によって幕府への出仕を求められたのです。
栗山を引き立てた定信は、儒教による国家再生を意識していました。
家康以来、江戸幕府では儒教を教育の中心に据えていた。この傾向は8代吉宗の頃に転換。
吉宗は明代政治を手本とし、庶民にまで儒教の教えを広めたのです。
統治の道具として朱子学の有用性を認め、実学志向も強い吉宗は、オランダから伝わった蘭学も重視するようになりました。
この傾向は、9代徳川家重、10代徳川家治でも継続。

徳川家重(左)と徳川家治/wikipediaより引用
火災の多い江戸で湯島聖堂は幾度か焼け落ちていましたが、その再建も完全にはなされないまま、荒れ果てていました。
家治の時代は、経済政策を重視した田沼意次が政治の実験を握っていました。
この時代は道徳的に堕落し、贈収賄が横行、軽薄な文化が広まったという反発もあります。
田沼意次が【天明の大飢饉】において適切な対応を取れなかったことが、「堕落による天罰だ!」という見方が広まっても不思議ではない状態。
為政者が堕落すると天が怒り、災害が起こるとする思想は【天譴論】(てんけんろん)と呼ばれ、儒教国家で広く信じられていたものでした。
定信はこうした状況から転換をはかり、儒教重視の国家運営に立ち戻ろうとしたのです。
そこで、己の知恵袋として白羽の矢を立てたのが、当代随一の儒学者として知られる柴野栗山。
かくして栗山は定信のもとで【寛政の改革】に携わることとなるのでした。
登用から3年後には湯島聖堂を統括し、日本を代表する儒者となった柴野栗山。
そんな松平定信と柴野栗山で推し進めた政策が【寛政異学の禁】です。
※続きは【次のページへ】をclick!