外科手術や麻酔などは西洋医術が本場。
明治時代に入ってからようやく日本へやってきた――そう思われがちですが、実は日本でも果敢に挑戦する医師がおりました。
文化元年(1804年)10月13日は、紀伊国の医師・華岡青洲(はなおか せいしゅう)が、麻酔をかけての乳がん手術に成功した日です。
世界でも前例のない快挙として知られますが、その陰には大きな代償があったとも伝わります。
妻の加恵(かえ)が光を失ってしまったというのです。

華岡青洲/wikimedia commons
加恵はなぜ失明するほどの実験に身を置くことになったのか。
青洲による麻酔の誕生を振り返ってみましょう。
乳がんの手術を志した華岡青洲
華岡青洲は宝暦十年(1760年)、紀伊国の医家の長男に生まれました。
天明二年(1782年)に京都へ上り、内科を吉益南涯、オランダ流の外科を大和見立(やまとけんりゅう)に学んでいます。
3年ほどで帰郷して家業を継ぐと、漢方とオランダ流外科を取り合わせた臨床外科の研究を進めました。
『世界人物逸話大事典』によると、青洲が意欲を燃やしたのは、ヨーロッパで乳がんの手術が成功したという情報を得たことと、牛の角で乳房を裂かれた農家の女性を縫い合わせた経験があったから。
当時の日本では、乳房を切れば命にかかわると考えられ、乳がんは不治の病とされていたといいます。
さらに手術には、患者が耐えられない“激痛”という壁がありました。
そこで華岡青洲が取り組んだのが、痛みを消す麻酔薬の開発だったのです。
毒薬を人体で試すしかなかった
華岡青洲により完成した薬は「通仙散(つうせんさん)」と呼ばれました。
チョウセンアサガオ(曼陀羅華)に数種類の薬草を加えた内服薬。
アトロピンやスコポラミンといった毒性成分が含まれ、瞳孔が開いたり意識が濁るなど、体が麻痺するといった中毒症状を起こします。
動物で効いたからといって、人間でも同じように効くとは限りません。
青洲はまず自分で服用し、両脚の麻痺に長く苦しみました。
そして母と妻も実験に協力するようになり、母は身体を害し、『朝日 日本歴史人物事典』では、研究の過程で被験者となった加恵が失明する事故に遭ったと記しています。
詳しい経緯は分かっていませんが、通仙散の副作用により失明したと伝わるのです。
『華岡青洲の妻』が描いた「競い合い」は史実か
昭和41年(1966年)に発表された有吉佐和子『華岡青洲の妻』は、嫁の加恵と姑の於継(おつぎ)が「自分こそ実験台に」と青洲への愛を競い合う物語です。

華岡青洲の妻(→amazon)
母と妻が人体実験に協力し、加恵が失明したという話は、広く伝わっています。
研究者の松木明知氏は論文『謎につつまれた華岡青洲の生涯』の中で、青洲自身が記録や著書を書かなかったため、多くのことが謎のまま残っていると指摘しています。
『世界人物逸話大事典』でも、この小説が描いたのは実験をめぐる「嫁と姑の葛藤」だと断っています。
どちらが先に名乗り出たのか、あるいは競い合いがあったのか。その辺の経緯は、小説の脚色と考えたほうがよさそうですね。
なお、加恵は、紀ノ川筋の名門郷士・妹背佐次兵衛の娘でした。
天明年間(1781〜89年)に青洲と結婚し、3男4女を産んでいます。
文化元年10月13日 世界初の全身麻酔手術
文化元年(1804年)10月13日、華岡青洲は大和国五條(奈良県五條市)の藍屋利兵衛の母・勘(60才)に通仙散を飲ませ、乳がんの摘出手術を行いました。
左の乳房は全体が赤く腫れており、勘は放っておけば命がないと知って、手術に同意したといいます。
通仙散は飲み薬だったため、効き始めるまで約2時間、手術を始められるまで約4時間、目覚めるまで6〜8時間を要しました。
結果、手術は成功し、勘は二十数日で故郷へ帰りました。
ただし、翌年2月26日に彼女は亡くなってしまいます。
がんはすでに乳房全体に広がっており、手術の失敗が原因とは考えにくい状況です。
実際、その後も青洲は多くの乳がん手術を重ね、『乳巌姓名録』に掲載された患者数は実に152人にものぼりました。

春林軒の主屋奥居間/wikimedia commons
この手術は、術者や患者、手術内容、日付まで確認できる全身麻酔下手術として、世界初と評価されています。
研究者の山本博文氏は著書『時代劇が面白くなる大江戸事典』の中で、青洲は麻酔を使って世界で初めて乳がんの摘出手術を成功させたと説明しています。
欧米でウィリアム・モートンがエーテル麻酔の公開手術に成功したのは、約40年後の1846年でした。
華岡流外科のその後
華岡青洲は手術用具にも工夫を加え、乳がん以外の手術にも麻酔を使いました。
全国から入門希望者が集まり、診療所兼医学校の「春林軒(しゅんりんけん)」を新築。
春林軒と、大坂に作られた分校・合水堂(ごうすいどう)で学んだ門人は、合わせて2,000人あまりとされます。

春林軒の主屋(左)と南長屋(右)/wikimedia commons
文政二年(1819年)には紀州藩の小普請格御医師に任じられました。
そして天保六年(1835年)に亡くなると、家は次男の修平が継ぎ、華岡流外科を受け継いでいます。
ただし、幕末にエーテルやクロロホルムが導入されると、副作用のある華岡流の麻酔薬は、急速に使われなくなりました。
それでも華岡流外科は、一時は日本の外科手術の主流になっています。
青洲の功績を振り返るなら、妻・加恵が失明したと伝わる人体実験も、切り離してはならないでしょう。
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参考文献
- 松木明知「謎につつまれた華岡青洲の生涯 ―麻沸散による全身麻酔施行200周年を記念して―」(『日本臨床麻酔学会誌』25巻5号 2005年)
- 和歌山県立医科大学附属病院紀北分院「華岡青洲の紹介」
- 日本麻酔科学会「10月13日は「麻酔の日」」
- 厚生労働省「自然毒のリスクプロファイル:チョウセンアサガオ」
- 『朝日 日本歴史人物事典』(朝日新聞社)
- 朝倉治彦ほか編『世界人物逸話大事典』
- 『日本史有名人の子孫たち』(新人物文庫)
- 山本博文『時代劇が面白くなる大江戸事典』(2010年 集英社)
- 有吉佐和子『華岡青洲の妻』(新潮社)


