宮沢賢治

宮沢賢治(右の写真は盛岡高等農林在学時に撮影)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

親ガチャ当たりの詩人・宮沢賢治~他人の影響を受けやすい性格だった

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注文の少なかった『注文の多い料理店』

大正13年(1924年)4月20日、初めての著作『心象スケッチ 春と修羅(→青空文庫)』が出版された。

事実上の自費出版である。

更にこの年の12月1日には、童話集『注文の多い料理店』を刊行。

この出版のスポンサーは大学(高等農林)の後輩・及川四郎である。

及川は出版社「光源社」を設立して、この童話集を世に送り出した。

実は、この童話集はシリーズ『イーハトブ』の第一作目だったが、一冊1円60銭(現代なら絵本で5,000円ぐらいの感覚)もうする高級品だったので売れずに、シリーズは1巻で完結となってしまったのだ。

これまた賢治とその周辺が、お坊ちゃまだらけの「殿様商売」であることがよくわかる。

農学校に通う生徒たちの家は貧しく、リア充の自分自身にも苦しくなったのだろう。

本当の百姓になるとして、大正15年(1926年)29歳で花巻農学校を退職した。

宮沢賢治童話村

 

苦しい庶民となり滲み出る喜び

賢治は、妹トシが結核のため離れとして使っていた宮沢家の別宅で、独居自炊の生活をはじめた。

農業をしながら文学をするという「理想」を追求。

『農民芸術概論綱要(→青空文庫)』は、以下のようなフレーズから始まる。

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい

もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい

われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

リッチだった実家暮らしを離れ、ようやく苦しい庶民と同じ場所に立ったことへの「喜び」が滲み出ている……。

しかし、一度味わった文化的リア充生活を簡単に捨てることなどできやしない。

30歳の誕生日から4日前となる8月23日、賢治は「羅須地人(らすちじん)協会」を設立。

農業技術の普及のほか、コンサートやオーケストラなどの文化活動を積極的に行った。

年末にはセロを習うために上京して、同時にオルガンやエスペラント語も習っているほど。

大正当時は、東北から東京へ遊びに行ける人など、ほとんど存在しなかった時代です。

これで「百姓」を自称していたのだから、本物の百姓たちは賢治らをどう思っていたことか。

実際に治安当局に目をつけられ、オーケストラは間もなく解散させられている。

文学を成すには、いずれにせよ教養が必要となる。

こうした関心が『セロ弾きのゴーシュ(→青空文庫)』などの名作を産んだのだろう。

賢治は耕すより、やはり「先生」であった。

持ち前の農業とくに肥料の技術を周辺の百姓に教えていった。

比叡山にある歌碑/Wikipediaより引用

最後の恋と雨ニモマケズ

昭和3年(1928年)6月、賢治は伊豆大島へ渡った。

岩手出身の伊藤七雄が伊豆大島で農学校を設立したいとして郷土の賢治を招いたのだ。

そこで賢治は七雄の妹チエと出会う。

七雄が「見合い」をしようとしたこともあって、賢治は「百姓」の妹として働くチエを気に入り、親友の藤原に「結婚するなら、あの女性だな」と告白した。

ところが同年8月、またも結核を発症。

その後は実家に戻り病床から、詩をつくり、肥料の相談にのった。

昭和6年(1931年)2月、病気が回復して、東北砕石工場の技師となり、石灰粉末の営業マンとして働いた。

旧東北砕石工場

あまりに意外な職場であるが、本人としても思うところがあったのか。

9月、出張先の東京でまたも病気が再発してしまい、花巻へ戻った賢治は遂に死を覚悟した。

この絶望的な状況下の11月3日、黒革の手帳に書かれたのが、いわゆる「雨ニモマケズ」だ。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

(中略)

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

(後略)

これは詩なのか、メモなのか、本人がどう思っていたかは不明なれど、心を打つ「文学」最高峰の作品であることは疑いがない。

 

最期は東北の豊穣な光に包まれて

賢治の闘病はその後も続き、昭和8年(1933年)9月20日に肺炎を再発すると、翌21日午後1時30分に亡くなった。37歳。

死の間際に呼んだ絶歌が残されていた。

方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる

病(いたつき)の ゆゑにもくちん いのちなり みのりのに棄てば うれしからまし

東北の自然を愛し、民を愛し、一方で自分の才能を愛しながら、リア充な境遇を憎んだ賢治。

東北の民が自然に打ちのめされた「凶作の秋」――このとき記した「雨ニモマケズ」は賢治の背負い込んだ東北のすべてではない。

賢治が亡くなった年は一転して豊作だった。

豊穣の東北を讃える絶歌を残した賢治が、最後に見た故郷イーハトーブの姿は黄金に光り輝いていたのだ。

恵美嘉樹・文

【参考】
青空文庫(→link
宮澤賢治生誕120年記念サイト(→link
重松清/小松健一/澤口たまみ『宮澤賢治―雨ニモマケズという祈り (とんぼの本)』(→amazon)

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