後三条天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

後三条天皇が道長一派(摂関家)の政権卍固めをブッ壊す!そして白河天皇へ

中島みゆきさんの「時代」という曲があります。

著作権の関係でここに歌詞を引用することはできませんが、18歳で書いたとは思えないほど深い言葉が並んでいます(歌詞はJ-lyricへ)。

本日はなんとなくこの曲を思い浮かべつつ、とある「時代」が変わった頃に注目してみます。

 

長元七年(1034年)7月18日は、後三条天皇が誕生した日です。

源平時代になるまでの朝廷というと、どうしても藤原摂関家(藤原道長たち)のイメージが強いですよね。

姫が生まれる度に皇族のめぼしい男性に嫁がせ、誰が皇位に就いたとしても、摂関家が外戚として口と手を出せるようになっていた頃。

そんな時代が170年ほど続いていました。

後三条天皇は、その連鎖を断ち切った人です。

 

母は藤原道長の外孫なれど既に亡くなっており

実は後三条天皇の母・禎子内親王も道長の外孫です。

しかし、後三条天皇が生まれた頃には既に道長が亡くなっており、その影響も大きかったかもしれません。

後三条天皇は、道長の外孫・後朱雀天皇の第二皇子として生まれました。本来であれば皇位に就かない可能性も高い立ち位置です。

ところがです。
異母兄・後冷泉天皇の皇子が生まれた直後に亡くなってしまい、その後も男子に恵まれないまま後冷泉天皇が崩御したため、後三条天皇が即位することになりました。

母・禎子内親王とときの関白である藤原頼通、そしてその弟である教通との仲が険悪だったため、後三条天皇はそれまでと違った政治的関係を築くことになります。

まず、頼通や教通の異母弟である藤原能信ふじわらのよしのぶです。

彼も道長の息子なのですが、母の父(能信の母方の祖父)が既に亡くなっていたため、頼通らと明確な差をつけられていました。

能信自身、公然と道長や頼通に逆らう気概の持ち主だったため、逆に禎子内親王や即位する前の後三条天皇に同情し、庇護していたのです。

残念ながら、能信自身は後三条天皇の即位前に亡くなってしまいましたが、後三条天皇はその恩を忘れず、能信の養子・藤原能長ふじわらのよしながを取り立てます。

当時はまだ後三条天皇の祖父・一条天皇の中宮だった藤原彰子(上東門院)が存命中だったため、彼女の意向を容れて、教通を関白にしてはいます。

その一方で村上源氏や、学者の大江匡房おおえのまさふさ藤原実政ふじわらのさねまさなど、今まで政治の中枢にはいなかった人々を多く登用しました。

後三条天皇自身も積極的に親政を行い、摂関家の独裁色を払拭するため奮闘していきます。

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摂関家に集中していた荘園を分散させた

また、摂関家に気兼ねして、東宮時代には冷遇してきた相手についても、恨みをぶつけずに接しました。

自分の親族である歴代の天皇が摂関家によっていいように使われたからこそ、自分はえこひいきをしないように努めたのでしょうか。

こうして政治方針と側近を整えた後三条天皇は、桓武天皇をお手本として、さまざまな政治改革を行いました。

荘園の整理を行ったり、経済に関わる法律を多く定めたり、朝廷の収入が安定するよう努めたのです。

同政策は、うまくいきました。

これまで摂関家に集中していた荘園が他の人に回るようになり、多くの公家や農民の収入が良くなったのです。

「摂関家以外を潤わせることによって、結果的に朝廷のお財布も豊かになった」

そんな風に見ても良いかもしれません。

一方、摂関家にとっては危機でしかないこの状況に対し、彼らは兄弟で対立したり、後三条天皇と釣り合う年頃の姫がおらず決定打に欠け、どんどん衰えていきます。

藤原氏全体で見ると、後三条天皇に嫁いだ姫はいるのですが……その女性自身が若くして亡くなったり、子供に恵まれなかったりして、政治的な成功を収めることはできませんでした。

逆に、こうして後三条天皇は基盤を固めていくことができたのですね。

外交面でも変化があり、例えば現在の青森県全域が朝廷の支配下に入り、北海道と沖縄を除く「本州全域と四国・九州と周辺の島々」がこの時代の「日本」となっております。
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