こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【源雅信】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
入内先選びが難航……ついに政敵・道長に娘を嫁がせる!?
とはいえ、雅信も後宮政治に全く興味がなかったとか、自ら禁じていたわけではなかったようです。
彼は子々孫々のため、自慢の娘である倫子をいずれかの天皇に入内させることを考えていました。
が、年齢の釣り合う花山天皇は退位してしまい、入内先選びが難航。
上皇に娘を嫁がせて皇子が産まれたとしても、皇位を継承できる可能性はとても低くなってしまいます。
その矢先に、雅信にとっては政敵である兼家の四男・道長に「お嬢さんを僕にください!」(※イメージです)と申し込まれるちょっとした事件が起きてしまいます。
当時の道長は兄たちとの政争に勝てる見込みがなく、将来性があるとは言いがたかったため、雅信はこの結婚に乗り気ではありませんでした。
-
実は出世の見込みなかった藤原道長の生涯 なぜ最強の権力者に?
続きを見る
しかし、雅信の正室・藤原穆子(ぼくし or あつこ)が、以下のような理由から道長と倫子の結婚に賛成します。
・一条天皇は倫子より16歳も年下である
・ときの皇太子(後の三条天皇)も8歳下で、釣り合うとは言いがたい
・無理に倫子を入内させるよりも、将来が未知数な道長に嫁がせ、いずれ産まれる姫(自分たちにとっての孫娘)を入内させるほうがいい
こうして穆子は、倫子を半ば強引に道長とくっつけてしまったのだそうです。
双方の父である雅信も兼家もボーゼンとしていたとか。カーチャンつよい!
道長と倫子は仲睦まじく、2人の間に彰子が生まれる
すったもんだな経緯ではありましたが、道長と倫子の夫婦仲は良好。
結婚の翌年に藤原彰子が産まれています。
後に一条天皇の中宮となり、紫式部などによる華麗な文学サロンを開くあの人です。
-
藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか
続きを見る
雅信は彰子が2歳のときに73歳で亡くなっているため、孫娘やそれ以降に続く一族の繁栄を見ることはありませんでした。
同時期に道長は兄たちを蹴落として藤氏長者になっており、穆子の目が正しかったことが証明されます。
そのため、道長も穆子には頭が上がらなかったとか。義理でもカーチャンはつよいなあ(小並感)
ちなみに、穆子も倫子も80代後半~90歳まで生きています。彰子が長生きだったのも、母や祖母の遺伝だったのでしょうね。
他にも雅信の子孫はいくつかの公家や武家の佐々木氏に続き、栄えていきました。
なお、道長は倫子より前に醍醐天皇の第十皇子・源高明(たかあきら)の娘・明子を妻にしていました。
しかし高明が雅信よりも先に亡くなっていたために、明子の後ろ盾はないも同然で、これも倫子とその子供たちが出世していくきっかけになっています。
高明は延喜十四年(914年)生まれで天元五年(983年)に亡くなっているので、雅信と大差はありません。
もしも高明と雅信の死去の順番が異なっていれば、倫子の子供である彰子や頼通と、明子の子供である能信(よしのぶ)の言動は入れ替わっていたかもしれません。
歴史の大筋には影響しなさそうですが、こういう紙一重なところってワクワクしますよね……しない? そっか(´・ω・`)
あわせて読みたい関連記事
-
皇位皇族と関わる【臣籍降下】とは?「姓がある=皇族ではない」の原則
続きを見る
-
清和源氏とその他の源氏~ややこしい源氏軍団をスッキリ整理しよう
続きを見る
-
日本一の権力者その跡継ぎ 藤原頼通(道長の長男)はどんな人だった
続きを見る
-
道長のお父ちゃん・藤原兼家が出家詐欺~天皇ダマして貴族の頂点へ
続きを見る
-
紫式部は彰子や道長とどんな関係だった?日記から見る素顔とその生涯
続きを見る
-
実は出世の見込みなかった藤原道長の生涯 なぜ最強の権力者に?
続きを見る
-
藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
源雅信/Wikipedia