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【源倫子】
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彰子の入内に向けて
実家の経済支援もさることながら、源倫子本人も負けていません。
特に娘の藤原彰子が成長し、入内が見えてきてからは、彼女の動きも活発になっていきます。
長徳4年(998年)正月の女叙位で、倫子は宮仕えしていないにもかかわらず従五位上になると、同年10月には従三位へ。
これまた藤原詮子が「宿下がりの際に土御門第や一条第で世話になっているので」という理由で、タイミング的には彰子入内に向けての下準備と見なされています。
倫子は、この時代の貴族女性としては、かなり丈夫な身体だったのでしょう。
彰子の入内前には、自身が臨月間近の身でありながら、娘に付き添っていたりします。
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そして長保二年(1000年)に彰子が立后された際には、「土御門第から入内した」という理由で倫子も従二位に上げられました。
道長が、倫子を重んじていたことを示す逸話も伝わっています。
それは長保三年(1001年)10月のこと。
道長の姉である藤原詮子の【四十の賀】が土御門第で行われることになりました。
40歳になった女性を身内で祝うもので、舞などを務める者も当然身内が多くなります。
そこで倫子の子である鶴君(のちの藤原頼通)より、明子の子・巌君(のちの藤原頼宗)が見事な舞を見せると、道長が機嫌を悪くして中座してしまったというのです。
いったい何事か?
藤原実資の日記『小右記』では、こんな風にまとめられています。
「鶴君は正室の子で愛着が深く、巌君は妾の子なので愛着がなかったからだろう」
しかし後世では、別の見方も強くなっています。
「倫子が同席していたため、彼女の面子を立てようとしたのでは?」
後者が正しければ、道長が倫子やその実家に気配りを欠かさなかったことが見てとれますね。
「この世をばわが世とぞ思ふ……」望月の歌から、道長というと強引で豪快な人物像をイメージしてしまうかもしれませんが、倫子との関わりを見る限り、繊細な性格の持ち主も浮かんできます。
実際、こちらの姿のほうが実像に近いのかもしれませんね。
『紫式部日記』にもたびたび登場
藤原道長は彰子の懐妊を心待ちにしていました。
しかし、幼くして入内したため、そうは簡単にはいかず、寛弘4年(1007年)には源倫子のほうが先に、末娘となる嬉子を産んでいます。
むろん道長にとって喜ばしいことに変わりなく、彰子から倫子へ出産祝いが送られたりもしていますが、三人とも少々複雑な心持ちだったかもしれませんね。
紫式部の『紫式部日記』にも、源倫子はたびたび登場します。
彰子の出産や公任の「若紫」エピソードなど『紫式部日記』には何が書かれている?
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寛弘5年(1008年)、彰子の初産となった敦成親王の誕生のことです。
出産には出血を伴うため、歴代の后妃は内裏ではなく宿下がりするのが慣例でした。
そのため彰子も土御門第でお産を迎えることになり、紫式部を含めた大勢の女房たちが同行しています。
季節は9月。
9日には「重陽の節句」という、長寿を願う行事があります。
現代では廃れてしまっていますが、ひとケタの奇数の中で「9」は最も大きな数字であり、平均寿命が短かった時代には重んじられていた節句です。
そこで倫子は、紫式部にも重陽の節句の贈り物をしました。
「菊の被綿」と呼ばれるものです。
前日9月8日の夜に、菊の花に綿をかぶせて夜露を吸わせ、9日にその綿で体を拭うと、老いが取り払われて寿命が伸びる……とされていました。
この頃の紫式部については『源氏物語』や彼女の才覚について、すでに道長や彰子から聞いていたでしょうから、
「長生きして、娘にできるだけ長く仕えてほしい」
という親心があったのかもしれません。
紫式部は恐縮し、
「恐れ多いので、ほんの少しだけいただいて倫子様にお返ししよう」
と思って菊綿を返す際に添える歌を詠んでいたのですが、その間に倫子が帰ってしまったので贈るのはやめにした、と書いています。
この菊綿は紫式部に対し特別に贈られた、というような書かれ方をしているので、
「紫式部は道長の妾だった説」
を支持する方の中には”正室と妾が火花を散らした出来事”として捉える向きもあるようです。
しかし倫子からすれば、そんな火花など散らしている場合じゃなかったでしょう。
紫式部は『源氏物語』の著者として当時から知られ、娘の教育係としても他に得難い人物。
子供のことを考えれば、噂だけで意地悪を仕掛けている場合ではないでしょう。
そもそも、彼女が嫉妬深い性格だったら、道長との間に何人も子をもうけて醍醐天皇の孫でもある明子に対し、もっとキツイことをしていたのではないでしょうか。
確かに明子の父・源高明は【安和の変】で失脚していましたが、当時は何がどう転ぶかわからない状況です。
明確に潰すべきライバルがいるとすれば明子であり、わざわざ紫式部を敵に回している場合でもないでしょう。
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