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【藤原隆家】
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甥・敦康親王は東宮になれず
藤原詮子が許すと決めた長徳4年(998年)、藤原隆家たちは帰京を果たしました。
一条天皇も定子への愛がやまず、異例のことながら呼び戻し、彼女は寵愛を受けています。
その結果、妊娠して、長保元年(999年)に敦康親王を産みます。しかし翌長保2年(1000年)、次の子を産むとその直後に亡くなってしまいます。
死を前にして、定子は妹の御匣殿に我が子を託していました。
一条天皇はこの御匣殿をも寵愛し、彼女は懐妊します。伊周と隆家兄弟は皇子が生まれるかと喜んだものの、彼女は身重のまま亡くなりました。
そんな悲運を経て、藤原隆家は、長保4年(1002年)にかつての権中納言にまで復権。
寛弘4年(1007年)には、従二位となりました。
この年、藤原実資はただならぬ計画を耳にしています。
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伊周・隆家兄弟が、大和国金峰山に向かった道長に対し、刺客の武士を放ったというのです。
ほどなくして道長は無事に帰京を果たし、きな臭い事件は噂だけで済んでいます。
当然ながら特段お咎めもなく、寛弘6年(1009年)、隆家は中納言に叙任。
この翌寛弘7年(1010年)に兄の伊周が没し、寛弘8年(1011年)に一条天皇が崩御すると、三条天皇が即位します。
隆家は、一家の希望を一身に背負い、姉の定子が産んだ敦康親王に望みを賭けます。
東宮となれば、まだ浮上の可能性は残る――。
しかし、寛弘8年(1011年)、東宮となったのは道長の娘・藤原彰子が産んだ敦成親王に決まりました。
『紫式部日記』に出産の様子が詳しく記された皇子ですね。
かくして道長が勝利し、隆家の敗北は確たるものとなってしまいました。
眼病治療の太宰府で【刀伊の入寇】
生粋の乱暴者だけに、藤原隆家は自ら何かやらかしてしまったのか。長和元年(1012年)末、目に尖ったものを入れてしまったようです。
負傷で目を悪くしてしまっては、家で治療に励むほかありません。
そんな折、太宰府に唐人の名医がいるという噂が流れてきます。
「おお、その者に治してもらおう!」
隆家は太宰権帥の仕官を望みました。
道長は政敵が力をつけることを懸念し、妨害活動に励みますが、隆家に同情した三条天皇に押し切られます。
かくして長和3年(1014年)に隆家の希望は通り、長和4年(1015年)、正二位に叙せられると、以降、太宰府に赴き、よくその地を治めたようです。
都では貴公子の隆家ですが、そもそもが“さがな者”だっただけに、現地の武士たちの方が相性が良かったのかもしれません。
少なくとも、いくらか心が通じ合っていなければ、直後に起きる“国難”を乗り切れなかったでしょう。
寛仁3年(1019年)、異民族の大型船団が対馬や壱岐を襲撃し、九州の北岸にも襲いかかってきたのです。
【刀伊の入寇(といのにゅうこう)】とも呼ばれる、この襲撃事件。
歴史の授業では【元寇】ばかりが注目されますが、決して小さな事件ではありません。
当時の大宰府は、隆家が唐人の診察を望むほど、国内では先進的な国際都市でした。
女親族とされる襲撃団の一群は、大型船と強弓を用いて対馬や壱岐で人々を殺戮したり、拉致したりして、次にやってきたのが博多だったのです。
このとき先頭に立って敵を撃退したのが藤原隆家。
事件は都にも報告されましたが、彼らができる対処法と言えば祈祷ぐらいであり、功労者はなんといっても現地で応戦した隆家や地元の武士たちでした。
そんな隆家は、敵を深追いすれば高麗を刺激しかねないと判断し、追い払うのみに留めました。
当時の女親族は、高麗の支配下に属してはいませんが、戦後処理は高麗が応対します。
その判断がよかったのでしょうか。
隆家は、高麗との外交交渉も進め、日本人捕虜259名の返還を成功させたのです。朝廷に代わり、大役を見事にこなしたんですね。
そして一仕事終えた隆家は、同年末、大宰権帥を辞して帰京しました。
下手をすれば博多以外の地も襲われかねなかった海賊集団を被害最小で撃退した隆家ですが、この多大な功績に対し、都での昇進はありません。
後任の太宰権帥は藤原行成です。
しかし長暦元年(1037年)になると、隆家は再び大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)まで務めています。
そして2年後の長久5年(1044年)1月1日に没しました。
享年66。
★
若くして亡くなった悲運の姉・藤原定子や、兄・藤原伊周とは異なり、様々な紆余曲折を経て長寿を全うした藤原隆家。
確かにその生涯は、インテリジェンスに富んだ父や母からは想像もできない「天下のさがな者(乱暴者)」でした。
しかし、異色の貴公子だったからこそ、異民族の襲撃を撃退できたのでしょう。
これがもし藤原行成ならば、相当異なる結果が出たに違いありません。
貴族にも、それぞれ得意分野があるのです。
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南北朝時代、肥後の豪族である菊池氏は藤原隆家の子孫を称しました。
真偽の程は不明なれど、公言する以上、隆家の武勇にあやかりたかったのは間違いないでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
関幸彦『刀伊の入寇』(→amazon)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
他