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【平安時代の暗殺・殺人事件】
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花山法皇の皇女変死事件
本事件も、少なからずグロテスクな描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。
女性の本名がわからないので、ここでは”皇女”と呼ばせていただきます。
「皇族で、ある程度成長していたにもかかわらず名前がわからない」という時点で、この方の不遇ぶりがわかってしまって、なんだか薄暗い気持ちになるのですが……。
万寿元年(1024年)12月6日夜、路上で亡くなっている”皇女”が発見されました。
しかも遺体がすぐに回収されなかったため、その夜中、野良犬に食われてしまったというのです。
いったい何が起きたのか?
彼女自身の記したものが残っていないため、
「盗賊にさらわれて殺害された」
「何者かに誘い出され、結果として殺害された」
など、当初から様々な推察がされました。
実はこの”皇女”、生い立ちからして不幸せな境遇でした。
前述の通り、この方は花山法皇の娘です。
天皇時代もあちこちの皇族・貴族の美女を入内させては寵愛と飽きを繰り返していた花山法皇。
クーデターにより譲位することになりましたが、出家後もその欲は留まるところを知らず、女性との関係を求め続けました。
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そして花山法皇が出家後に関係を持った女性の一人が、藤原伊尹(これまさ)の娘……の女房で、「中務(なかつかさ)」と呼ばれていた人でした。
伊尹の娘との関係を持つうちに、側仕えしていた中務にも手を付けたようです。
出家の身でよろしくありませんが、”どこぞの姫君と女房の両方と関係を持つ”というのはままあることでした。
実はこの中務、花山法皇の乳母の娘でした。つまりは乳兄妹に手を付けたわけです。まぁ、幼い頃から見知っていた間柄と考えればおかしくはありません。
問題はここからです。
花山法皇はまだまだ飽き足らず、なんと中務の娘・平子にも手を出したのです。
しかも彼女たちはほぼ同時に妊娠してしまうという有様。
不確実な避妊方法しかない時代に、こんなにも漁色にふけっていればこうなるのも当然ですが、さすがに出家の身で子供を持つのはマズイと思ったらしく……父であり出家はしていなかった冷泉上皇の子ということにして育てさせたようです。
それでも花山法皇は懲りず、中務との間に二人の皇女までもうけてしまいました。
このうち妹のほうが、悲惨な最期を迎えることになってしまった”皇女”です。
藤原彰子の女房として出仕
”皇女”はなぜか、とある女房のもとに里子に出され、やがて太皇太后となっていた藤原彰子の女房として出仕することになりました。
『小右記』に「花山法皇の皇女が殺害された」と書かれているということは、当時の貴族社会において”皇女”の身元は公然の秘密になっていたはずです。
にもかかわらず、犬に食われてしまうほど放置されていたことになるわけで……。
里子に出された経緯も不明、殺されてしまった経緯も不明、ろくに弔われなかった理由も不明という、実に闇の深い事件。
里子に出した理由はただ単純に「花山法皇が顔を気に入らなかった」という可能性もありますが、太皇太后のもとで仕えていながら、殺害された上に路上で見つかったのはどうにも解せないところです。
好意的に考えるとすれば、何かの使いで御殿から出ていたところを賊に襲われたとも考えられますが、身元がわかったということはおそらく衣装が残っていたのでしょう。
ここで一旦『紫式部日記』に書かれている強盗事件と比較してみます。
とある年の大晦日で魔除けの儀式である追儺(ついな)が早く終わり、紫式部たちは新年の準備が始まるまでのほんの少しの時間をゆっくり過ごしていました。
しかし悲鳴が聞こえ、紫式部が同僚二人とともにその方へ行ってみると、なぜか裸の女房が二人おり、強盗が押し入ったことがわかったのでした。
お気づきでしょうか?
『紫式部日記』の強盗は「衣装は剥ぎ取った」が命までは取らなかった。
対して”皇女”を殺した犯人は、「身元がわかるようなもの(おそらく衣装)を残していった」のです。
道端に死骸が転がっていてもおかしくなかった時代ですし、そもそも殺人犯からすれば、殺した相手の身元がすぐにわかってしまうのは都合の悪いことでしょう。
強盗→殺人の順番・優先順位であったのなら、高く売れるものは何であろうと剥ぎ取っていったはずです。
これは完全に私見であり、妄想の域にも入るレベルの話になるので、ご笑納いただきたいのですが……。
”皇女”を殺した犯人は、「確かに始末しました」ということを誰かに知らせたかったのではないでしょうか。
つまり、こんな流れです。
誰かが”皇女”をよく思っておらず、身分の低い者に命じて殺させた
↓
犯人は証拠になるものをほんの少しだけ持っていった
↓
依頼主は”皇女”殺害の知らせと証拠を照合して、始末が済んだことを確認した
たとえ表立って皇族とみなされていなくても、貴族社会の一員が殺されたことに対し、ろくに調査されていないことも不審さに拍車をかけています。
一応、犯人は隆範(りゅうはん)という僧侶だったとされているのですが、藤原伊周の息子で「荒三位(あらざんみ)」と呼ばれた藤原道雅がやらせたのでは?とも囁かれています。
しかしそれを特定するところまでは至らず有耶無耶に……まったくもって後味の悪い事件でした。
彰子の出産や公任の「若紫」エピソードなど『紫式部日記』には何が書かれている?
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ホッコリ事件も勃発~帝の前に山鳥が!
すっかり重い話になりましたので、最後はホッコリする事件に注目。
帝の前や内裏、あるいは五節の舞など行事のところへやってくる動物たちです。
現代でも京都市街は遠くに山々が見える土地ですが、平安時代はさらに緑豊かでした。
そのため”建物に何かしらの鳥獣が入ってきてしまった”という記録がたびたび登場します。
時系列に沿って、一気に挙げてみましょう!
・長保二年(1000年)10月→内裏に雉(きじ)
・寛弘二年(1005年)6月→賀茂神社の社殿に鳶(とび)が闖入して死亡
・寛弘三年(1006年)10月→一条天皇の御前に山鳥
・長和二年(1013年)11月→「五節の舞」直前に猪が闖入
・長和六年(1017年)→鹿が法会(ほうえ)に突入
・寛仁四年(1020年)10月→藤原実資の邸に猪が闖入、生け捕りにして冷泉院の山に放す
・寛仁五年(1021年)→牛が内裏に
・万寿元年(1024年)2月→兎が外記局(げききょく・文書関連の作業を担う事務局)に侵入
なかなかバリエーション豊かですね。
後日談のあるのが、万寿元年(1024年)2月28日の兎事件です。
残念ながら兎は撲殺されてしまったのですが、この侵入事件にどんな意味があるのか?占ってみると、こんな予言がくだされます。
「近いうちに火事がある」
現代人からすると「そんなバカな」の連続ですが、実際、その後の3月1日に火事が起きてしまったのです。
こういった合致がたまに起こるため、占いも手放せない存在となっていたのでしょうね。
意地の悪い見方をすれば、占いを的中させるため放火したのかもしれませんが……(実は当時は放火事件も多く、こちらもまた別記事にてご覧ください)。
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長月 七紀・記
【参考】
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
倉本一宏『平安京の下級役人』(→amazon)
倉本一宏『藤原道長の日常生活』(→amazon)
国史大辞典