藤原頼通

画像はイメージです(駒競行幸絵巻/wikipediaより引用)

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道長と倫子の次男・藤原教通は野心溢れて兄の頼通とバッチバチに対立!結末は共倒れ?

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娘は皇子に恵まれず

不穏なスタートながら、当の後朱雀天皇と生子の関係は悪くなかったようです。

後朱雀天皇は生子を立后させて立場を守ろうとしもしています。

しかし、これには頼通が大反対。

「摂関の娘でもないし、皇子を産んだわけでもないのに立后するのはいかがなものでしょうか」

そう言われて、結局、断念せざるを得ません。

人々は生子に同情したらしいので、周囲から見ても後朱雀天皇と生子との仲は良好だったんですね。

一方で、生子の入内と入れ替わりに皇后・禎子内親王が皇居を出て、四年ほど参内しなくなりました。

禎子内親王も道長の外孫ではあるものの、やはり現役の内大臣・教通を後ろ盾に持つ生子相手では分が悪いと感じたのでしょう。

また、同時期の12月17日に教通の子・藤原信長が、天皇の秘書といえる蔵人頭に就任しました。

彰子の承認を得てのことだったようですので、頼通も反対しきれなかったと思われます。

時は流れ、後朱雀天皇が寛徳二年(1045年)1月18日に崩御。

後朱雀天皇と藤原嬉子(道長と倫子の末子)の間に生まれた後冷泉天皇が即位しました。

これに際して新たな東宮・尊仁親王の元服の際に教通が加冠役を務めており、徐々に重い立場になっていったことがうかがえます。

永承二年(1047年)には右大臣にもなり、三女の歓子を後冷泉天皇に入内させました。

歓子は永承四年(1049年)に皇子を産みますが、その日のうちに夭折してしまい、教通が外戚になる可能性も薄れていきます。

皇子に恵まれず、頼通との確執はまだ続いていたことから、歓子もなかなか立后できず、時が流れ……。

永承三年閏1月29日(1048年3月16日)には、教通の妻・禔子内親王も薨去してしまいました。

前述の通り、教通との間に子供は生まれなかったものの、本人が二品の内親王で自分の御封(収入)もあったので、おそらく悪い立場ではなかったでしょう。

出産の危険が高かった当時、無理に子供を作って何かあったら、教通の子供たちの格上げもできなくなってしまいますし。

 


外戚になるため粘り続け……

立后や皇子誕生については進展せず。

一方で、藤原教通官位はどんどん上がり、康平元年(1058年)には従一位、同三年(1060年)に左大臣まで上り詰めました。

さらに、兄・頼通の長男である通房が長久五年(1044年)に亡くなり、その異母弟である師実が長久三年(1042年)生まれでまだ若年だったことから、康平七年(1064年)、ついに教通が“藤氏長者”となります。

藤氏長者とは書いて字のごとく、摂関家を含めた藤原氏全体の長のことですね。

貴族社会で藤原氏と全く縁のない家はほぼありませんから、貴族社会の長といっても過言ではありません。

これによってようやく教通の立場が強まり、治暦四年(1068年)に歓子を後冷泉天皇の皇后に立てることができました。

頼通からは関白職も譲られます。

しかし「師実が成長したら関白を譲ること」という条件をつけられますが……後述します。

歓子の立后時には、既に後冷泉天皇が危篤状態だったため、皇太后への布石という意味が強かったと思われます。

そして後冷泉天皇が回復しないまま崩御すると、後三条天皇が即位。

後三条天皇は禎子内親王の子ですので、一応摂関家とも血が繋がっています。

しかし東宮時代に頼通から圧迫されていたこともあって、教通との関係も良好とはいい難く……。

愚管抄』などによると、こんな逸話があります。

教通が藤原氏の氏寺・興福寺南円堂の造営を、大和の国司にやらせようとしたところ、後三条天皇が強く反対。

それに対し教通が「これではご先祖様や氏神様に申し訳が立たない」として閉口し、藤原氏に連なる公卿たちを朝議の場から退出させた。

以降、教通は、頼通や後三条天皇を相手に“寿命というチキンレース”を繰り広げることになります。

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摂関レースの勝者は?

状況は、教通にとって楽観視できるものではりません。

延久元年(1069年)には自ら左大臣を辞任し、翌延久二年(1070年)に太政大臣になっても、翌年には辞しています。

そして延久四年(1072年)、後三条天皇が病のため東宮・貞仁親王(白河天皇)に譲位。

白河天皇によって教通は関白に任じられました。

この時点では頼通も存命でしたので「以前の約束通り、ウチの師実に関白を譲ってもらおう」と言ってきます。

教通は当然のように拒否。

そりゃ一度自分の家系に関白の座がまわってきたら、息子に継がせたくなるものですよね。振り返ってみれば、道長と伊周の権力争いも同様の血縁関係からでした。

では頼通と教通の争いは?

というと、意外な結果かもしれません。

頼通が延久六年2月2日(1074年3月2日)に亡くなると、教通もまた承保二年(1075年)9月25日に80歳で薨去しているのです。

後三条天皇に対しては白星、頼通に対しては辛勝といったところでしょうか。しかし……。

藤原教通の死後、関白の座は師実のものとなり、教通の家系に摂関が回ってくることはなくなりました。

教通ひとりをみれば粘り勝ちかもしれません。

しかし、その後のことを考えると勝ちとは言い難いですね。

結局、後三条天皇と白河天皇以降、時代は院政期へ移行するわけで、頼通と教通は、二人して足を引っ張りあってしまったとも取れそうです。

教通の日記『二東記』は散逸部分が多いので、今後状態の良いものが見つかれば、また違った人物像が浮かび上がるかもしれません。

新たな史料の発見を待ったり、それによって新たな印象が生まれるのも歴史の醍醐味でしょう。


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長月 七紀・記

【参考】
服藤早苗/日本歴史学会『藤原彰子 (人物叢書)』(→amazon
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon
朧谷寿『藤原道長 男は妻がらなり』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
日本人名大辞典

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