藤原頼通

画像はイメージです(駒競行幸絵巻/wikipediaより引用)

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道長と倫子の次男・藤原教通は野心溢れて兄の頼通とバッチバチに対立!結末は共倒れ?

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従者の暴力事件

父から気に入られ、実資にも誠意を見せ、なんとなく真面目そうな人柄がうかがえる教通。

しかし彼の従者には、なぜか荒っぽい話が多々あります。

またしても時系列が前後してしまいますが、その手の話を3つほど見てみましょう。

まずは寛弘七年(1010年)2月のこと。

教通の乳母で”蔵”という通称の女房が、教通の従者たち30人ほどに鴨院西の対を襲わせるという事件が起きました。

“蔵”の前夫である大中臣輔親(おおなかとみの すけちか)が鴨院西の対に住んでいた女性のもとに通い始めたので、“蔵”が嫉妬したためだったとか。

いわゆる後妻打ち(うわなりうち)の例といいますか、最古の例とされる事件です。

『鎌倉殿の13人』でも北条政子亀の前の住む邸を襲わせたことで知られる、あの事件の先例ですね。

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プライベートな領域の話ではありますけれども、同僚を動かしているからには教通に話を通していたはずですし、教通が止めなかったのは間違いないでしょう。

2つ目は治安元年(1021年)2月のこと。

兄の頼通が藤原実資に対し、こんな風にぼやいたとあります。

「教通が宣耀殿を宿所にしたのですが、私の宿所よりも派手にしています」

「教通に仕える者は悪人ばかりなのです。私なら従者にそんなことはさせないのに」

家の恥を晒していいの?と思いますが、それだけ実資を信頼していたのかもしれませんね。

さらに3つ目も『小右記』からで、治安二年(1022年)3月には教通と能信との間で物騒な事件が起きています。

まず、3月21日に能信が教通の厩舎人長を拉致監禁し、殴る蹴るの暴行を加えました。

この時点で既に物騒ですが、報復として教通の従者たちが3月23日に能信の従者の家を破壊したといいます。

土地を巡る諍いが原因だったらしく、詳細は不明。

また、争ったのはあくまで従者たちであり、当人同士ではありません。

命令されてという可能性は高いでしょうけれども、古い時代においては、従者の忠誠心が高すぎると、主人の心境を慮るが故に暴力沙汰になることが多々あります。

教通の従者たちも、主人の忍耐を思いやって、やらかしたことがあったのかもしれません。

この辺は想像の域を出ないので、ここまでにしておきましょう。

 


禔子内親王と結婚

官位の上では順調に登っていった藤原教通

トラブルが起き始めたのは家庭のほうが先でした。

最初の妻である公任の娘が、治安四年(1024年)に亡くなったのです。

彼女は同年に末子・静覚を産んでいるので、出産時に何かしら事故があったか、産後の肥立ちが悪かったのかもしれません。

舅の公任は前年にも娘を喪っており、職を辞して出家し、山にこもるほどショックを受けました。

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その後、同じように子供に先立たれた道長や藤原斉信と交流するようになり、その流れで教通も公任を尋ねています。

そして万寿三年(1026年)2月、教通は三条天皇の皇女・禔子内親王(しし / ただこないしんのう)を妻に迎えました。

禔子内親王とは、最初、頼通との結婚が打診されていた方ですが、当の頼通が長年連れ添った隆姫女王(村上天皇の孫)の立場が低まることを恐れて病気になってしまい、取りやめになっていました。

万寿三年時点で三条天皇は既に崩御しています。

ですので三条天皇との関係改善ではなく、教通の子供たちの格を上げるための結婚だったと思われます。

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教通と禔子内親王との間には子供がいませんし、後述する教通の長女・生子が後朱雀天皇に入内する際、教通と禔子内親王が付き添っているためです。

なんだか源氏物語の夕霧と落葉の宮(朱雀院の女二の宮)を彷彿とさせる話ですね。

余談ですが、禔子内親王の同母姉が藤原道雅(伊周の長男)との悲恋で知られる当子内親王です。

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当子内親王は教通と禔子内親王の結婚よりも前、治安二年(1022年)に薨去。

そして前述の通り、教通の最初の妻である公任の娘も治安四年(1024年)に亡くなっています。

教通と禔子内親王は、双方の忌明けから十分に時間をおいて結婚したのかもしれません。

さらに話が広がってしまいますが、万寿元年(1024年)12月6日に彰子の女房になっていた花山法皇の皇女が殺され、「その黒幕が道雅だ」という噂が立っていました。

この事件がどのように解決したのかは記録が乏しいながら、教通と禔子内親王の結婚と同じ万寿三年(1026年)に道雅の官職が格下げされています。

当時、内大臣だった教通がもともと禔子内親王に好意を寄せていて、心身ともに守るために道雅をやり込めてから結婚した……なんて考えるのは少々ロマンが過ぎるでしょうかね。

やはり実母が亡くなり、母方の祖父・公任も出家してしまって後ろ盾が弱くなった子どもたちの格を上げるため、という理由が強いでしょうか。

あるいは、前述の山荘で公任と語らったことで

「義父上のためにも、忘れ形見の子らを立派に世へ送り出さなくては」

と決意し、内親王を妻にしたのかもしれません。

ちなみに公任はさまざまな人との交流が功を奏したのか、長久二年(1041年)まで健在でした。

享年75なので、当時としては結構な長生き。

政治から身を引いてストレスが減ったことが良かったのか、孫たちの先行きも明るそうなことでいくらか励まされたからかもしれません。

 


後宮政治に乗り出そうとするが

1020年代後半になると、摂関家に訃報が相次ぎます。

藤原教通はその合間に自らの立場を高めるため、積極的に動き始めました。

万寿二年(1025年)8月に末妹・藤原嬉子が亡くなり、万寿四年(1027年)3月に教通は娘の生子を東宮・敦良親王に入内させようとして、道長と頼通に阻止されます。

おそらく教通は娘の入内を諦めていなかったと思われますが、同年9月に同母姉で三条天皇の皇后・妍子が崩御し、それどころではなくなってしまいました。

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他にも教通の異母きょうだいが亡くなり、飲水病(糖尿病)だった道長も病状が悪化。

彰子と頼通が平癒祈願をしたものの、万寿四年12月4日(1028年1月3日)、ついに道長も薨去となり、教通を含めた男子は徒歩で棺に従いました。

法事等はほとんど彰子や頼通が主催し、教通はやはり目立たない立ち位置です。

そして喪が明けてしばらく経った長元三年(1030年)2月、教通の長男で頼通の養子になっていた信家が元服します。

この年にも教通は娘の生子を後一条天皇へ入内させようとしたものの、既に入内・立后していた同母妹・威子、母・倫子、兄・頼通と三人がかりで抵抗され、断念せざるをえなくなります。

なんだか一家総出を敵に回している感すらありますね。

そうこうしているうちに時は流れ、長元九年(1036年)4月に後一条天皇が崩御。

皇位は弟の後朱雀天皇に引き継がれました。

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すると教通は、以下の条件を鑑みて、再び生子の入内をゴリ押しします。

・生子が既に20代中盤になりつつあること

・まだ後朱雀天皇に皇子がひとりしかいない(皇后・禎子内親王の産んだ尊仁親王=のちの後三条天皇)こと

・後朱雀天皇と生子は5歳差で釣り合いが取れていること

・長暦三年(1039年)8月に頼通の養女(敦康親王の娘)で後朱雀天皇の中宮・藤原嫄子が崩御したこと

道長らをはばかって他の貴族が娘を入内させなかったこともあり、長暦三年(1039年)8月の時点で後朱雀天皇の后妃は皇后・禎子内親王しかいなかった……という背景も影響したのでしょう。

教通からすると「この状況下で、我が家に健康な娘がいるのに入内させないなどありえない」と思ったはず。

そして長暦三年(1039年)12月、頼通の反対を押し切って生子を入内させました。

このとき頼通が皇居に入る際の輦車(れんしゃ)を貸してくれず、自前で作らなければならなかったとされます。

また、頼通をはばかってほとんどの貴族が随行せず、わびしい入内となってしまったようで……。

『光る君へ』でもありましたように、三条天皇が皇太子時代から連れ添った妻・藤原娍子を無理やり皇后にしたときとほぼ同じ状況ですね。

生子の場合は、父・教通の同母兄弟である頼通が相手だけに、よりタチが悪いというか深刻というか。

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