こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【菅原孝標女】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
あこがれの都へ戻る
そんなちぐさが13才のとき、父の任期が終わりました。
これで都に向かうことができる。彼女はそう喜びました。
例の仏像は置き去りにしなければならないものの、願いが叶ったのです。
上総から都へのあまりに厳しい旅路は、『更級日記』では見どころの一つ。
おそるべき悪路。嵐の中を移動する困難。船に乗れば沈みかねないかハラハラするわ。
まだ幼さの残る13才がこんな道を旅するとはおそろしいこと。
道中で病気に罹り、危ういことすらありました。ちぐさの実母が夫の赴任先についてこなかった理由も、十分に理解できます。
『光る君』では、父と共に越後へ向かった藤原惟規が道中で病に倒れ、そのまま命を落としました。
成人男性でも当時の旅先ではそうなっても不思議はないと痛感できます。
そんな旅でも、感受性豊かなちぐさは風情ある景色を見逃せません。
こんな綺麗な景色で月を見ないなんてありえないと思ったとか。各地で伝説を聞き止めたとか。美声で歌う遊女を見かけたなどなど。好奇心たっぷりに吸収してゆきます。
彼女の筆のおかげで、当時の人々の暮らしが伝えられているのです。
かくして三ヶ月の旅路を終えて、ちぐさは四年ぶりに家へと辿り着いたのでした。
なお、ちぐさの銅像(菅原孝標女像)が、現在も千葉県市原市に立っています。
上総国を離れ、都を目指す旅姿、壺装束を身につけた少女の姿をしているのでした。
姉妹と、大納言の姫と、猫の縁
菅原邸のある場所はかつて一条天皇と定子の間に生まれた脩子内親王が暮らしていた、三条宮のそばにあります。
清少納言からすれば懐かしいと思えるであろう場所。
喜びも束の間のこと、着いた歳の春、都では疫病が流行りました。
旅の途中に再会し別れた乳母も亡くなったと聞かされ、彼女は暗い気持ちになります。
そんな娘に、父は書道の手本を渡してきました。
あの伝説の書家である藤原行成の娘が書いたものです。
それはもうたいそうな価値があるものでしたが……。
『拾遺集』から、詠み人知らずの歌が書かれています。
鳥辺山 煙の燃え立たば はかなく消えし 我と知らなむ
火葬の地である鳥辺山で煙が燃え立ったのならば、私が儚く亡くなったのだと思って欲しい。
鳥辺山といえば『光る君へ』では直秀たちが殺され、定子が埋葬されたあの場所です。
見事な筆跡ではあるけれども、この歌はあまりに悲しい。しかもこの姫は亡くなったとか……見ているうちに悲しくなってしまうちぐさです。
いくら能書家の筆跡であろうと、それを渡さなくてもよいのではないか。そう思ってしまいます。
しかし、この筆跡のせいでしょうか。この姫とは、不思議な縁が生まれることになります。
ちぐさは姉ととても仲が良いものでした。
姉妹の話がなんとも微笑ましいもので、日本史上におけるペット史や生まれ変わりについて考える上でも重要です。
桜の花の散るころ、ちぐさはぼんやりと亡くなった乳母、そして大納言の姫君こと、行成の娘を思い出していました。
すると、どこからともなく愛くるしい猫が入ってきます。
この猫は姉妹にとてもよくなつき、身分の低い者たちの場所にはあまり向かわず、汚い餌は食べようとしません。
「なんだか高貴な猫ちゃんだね、ますますかわいい〜」
そうかわいがっていたところ、姉が病で寝付いてしまいます。姉が猫をあまり構うことができないと、猫はさみしいのか、ひどく鳴いています。
すると姉が病床から起き上がり、こう言い出したのです。
「あの猫は普通じゃないの!」
なんとあの猫は、大納言の姫なのだと夢で訴えたというのです。
大納言の姫君である私だもの、身分の低いものとは気が合わないから、どうか大事にして……そう訴えたのだとか。
ちぐさは驚き、猫に「大納言の姫なの?」と話しかけると、ニャアと愛くるしく鳴いています。
「うん、確かにあなたは姫だ!」
そう納得する姉妹。
このことを大納言その人にも話そうかと思っていたところ、この猫は火災の際に逃げ遅れ焼死してしまったのでした。
時代がくだり、江戸時代後半ともなりますと、歌川国芳が『賢女烈婦伝』シリーズにおいて「大納言行成女」を描いております。
座る行成の娘の前には、蝶をつかまえた猫がおります。猫好きの国芳だからこそ、この気の毒な姫のことが印象に残っていて、描いたのかもしれませんね。
この姉はのちに幼い二人の女児を残し、出産後、若くして亡くなってしまいます。
それでもこの姉妹の様々な思い出は、妹の日記を通し読み継がれてゆくのでした。
『源氏物語』を全巻入手した!
都に戻って以来、「物語をちょうだい! ともかく物語が読みたい!」とアピールに余念がなかったちぐさ。
実際、入手となると大変です。そんなものか……と思いながら、どうしても諦めきれません。
するとあるとき、伯母が様々な物語と共に全巻を贈ってきました。
嗚呼、なんて幸せなの――几帳の中に引きこもり、一巻一巻、夢中になって読み始めます。
寝ても覚めても読み続け、暗記するまで読み耽り、ついにはトランス状態なのか、スピリチュアルな夢まで見てしまいます。
そしてちぐさは、しみじみと思います。これを読む幸せと比べたら、后の位だって大したことがない!
この推しへの没入感が、今に至るまで「わかりみ!」と思われるオタク気質なのでしょう。
ただし、現代人とは異なる感覚もあります。
ちぐさが『源氏物語』で推し、感情移入する女君は、夕顔や浮舟といったあまり身分の高くない人物です。
夕顔は頓死しますし、浮舟はじめ「宇治十帖」の女君は誰もが悲運をたどります。現代人ならば「ああはなりたくない……」と思っても不思議はありません。
しかし、ちぐさの身分を踏まえればわかります。
中流貴族の娘である彼女にとって、身の丈にあったシンデレラストーリーは夕顔や浮舟程度が身の丈にあっています。
光源氏や薫のようなイケメン貴公子と、かりそめでもいいからロマンチックな時間を過ごせたらいいな……それがちぐさのリアルでした。
ちぐさは自分が『源氏物語』ヒロイン級の美女であるとは思っておりません。ほどほどの姫だという自覚はあります。
ただ、こう妄想してのたうちまわっていたようです。
※続きは【次のページへ】をclick!